カテゴリ:宮中料理の一覧

2018年12月13日 (木) 04:51時点におけるHatta (トーク | 投稿記録)による版
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宮中料理(궁중요리)は、高麗時代、朝鮮時代の宮中で食べられていた料理、飲料の総称。本ページでは宮中料理について解説する。

宮中料理店におけるコースの一部

名称

宮中料理(クンジュンヨリ、궁중요리)。または宮中飲食(クンジュンウムシク、궁중음식)と呼ぶ。

概要

宮中料理は大きく、王、王妃、王大妃(王の実母)の食べる日常の食事と、国家的行事における宴会食に分けられる。王たちの日常食は厨房尚宮(チュバンサングン、주방상궁)と呼ばれる女官らによって作られ、宴会食は待令熟手(テリョンスクス、대령숙수)と呼ばれる男性料理人によって作られた。厨房尚宮らが調理をした場所は焼厨房(ソジュバン、소주방)、または水剌間(スラカン、수라간)と呼ばれ、宴会食は作業が大がかりになるため熟設所(スクソルソ、숙설소)と呼ばれる臨時の作業場を設けた。現代の韓国において宮中料理と呼ばれるものは、日本統治時代に厨房尚宮から直接伝えられたものと、儀軌(ウィゲ、의궤)と呼ばれる宮中の記録をもとにしている。

  • 水剌
水剌(スラ、수라)は、宮中における王、王妃、王大妃の食事を指す言葉。水剌を用意する食膳、または膳立てのことを水剌床(スラサン、수라상)と呼ぶ。この水剌という単語は、モンゴル語に由来すると考えられている。13世紀に高麗王朝は元(モンゴル)の支配を受け、第25代の忠烈王(충렬왕)から第31代の恭愍王(공민왕)までは元の王族と婚姻をした。このことから高麗時代末期の宮中にはモンゴルの文化が流入し、食文化においても大きな影響を与えるに至った。モンゴル料理の代表的なものにシュル(ヒツジのスープ、шөл)があり、これが語源となって水剌になったと考えられる。また、同じくシュルを語源とするとの説がある料理に、牛の各部位を煮込んだスープのソルロンタン(牛スープ/설렁탕)がある。

歴史

昌徳宮の楽善斎

1910年の日韓併合によって宮中の食文化は途絶える危機にあった。ソウルの淑明女子専門学校(現在の淑明女子大学校)で家政学を教えていた黄慧性氏は、歴史学者でもある小田省吾校長のすすめもあって、1942年から昌徳宮内の楽善斎にて宮中料理を学んだ。当時の楽善斎には純宗(第27代)妃の純貞孝皇后尹氏(尹妃)が暮らしており、のちに朝鮮王朝宮中飲食の初代技能保有者となる韓熙順尚宮を含め、5人の厨房尚宮が尹妃の料理を作っていた。口伝のみで記録を残さない女官たちの技術が、このとき初めて民間に伝えられ、失われる寸前で現代まで残ることとなった。従って、今日の韓国で宮中料理と呼ばれているものは、朝鮮時代末期の食文化が基本となっており、そこに文献上の記録をたどって復元したものが加わっている。朝鮮王朝宮中飲食は1970年に国の重要無形文化財に指定された[1]

  • 朝鮮王朝宮中飲食
朝鮮王朝宮中飲食(チョソンワンジョ クンジュンウムシク、조선왕조 궁중음식)は、朝鮮時代(1392~1910年)に宮中で食べられていた料理、飲料の総称。料理の中には新羅時代、高麗時代に完成されたものも含まれる。その調理方法と配膳方法は「朝鮮王朝宮中飲食」の名前で国の重要無形文化財第38号に指定されており、初代の技能保有者は宮中の尚宮(女官)であった韓煕順(ハン・ヒスン、한희순)氏が認定を受けた。以後、2代目を黄慧性(ファン・ヘソン、황혜성)氏、現在の3代目を韓福麗(ハン・ボンニョ、한복려)氏と、鄭吉子(チョン・ギルジャ、정길자)氏の2名が引き継いでいる。朝鮮王朝宮中飲食の伝承機関として、ソウル市の鍾路区苑西洞(チョンノグ ウォンソドン、종로구 원서동)に「宮中飲食研究院(궁중음식연구원)」がある。

種類

神仙炉

代表的な宮中料理としては以下のようなものがある。また、本ページの最下部に関連する項目の一覧がある。

脚注

  1. 조선왕조궁중음식 (朝鮮王朝宮中飮食) 、文化財庁国家文化遺産ポータル、2018年12月12日閲覧

外部リンク

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関連項目