羅州市の料理

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羅州市(ナジュシ、나주시)は全羅南道の中西部に位置する地域。本ページでは羅州市の料理、特産品について解説する。

羅州錦城館(나주금성관)

地域概要

羅州市は全羅南道の中西部に位置する地域。市の北部は広域市の光州市、東部は全羅南道和順郡、南部は全羅南道霊岩郡、南西部は全羅南道務安郡、北西部は全羅南道咸平郡と接する。人口は11万6752人(2024年10月)[1]

代表的な観光地に、朝鮮時代に羅州牧の客舎として使われた羅州錦城館(나주금성관)や、栄山江(ヨンサンガン、영산강)における水運の歴史を伝える栄山浦灯台(영산포 등대)と黄布帆船(황포돛배)、新都市の中心に設けられたピッカラム湖水公園(빛가람호수공원)と展望台(전망대)、三国時代に築造された潘南古墳群(반남고분군)と隣接する国立羅州博物館(국립나주박물관)などがある。

ソウル市からのアクセスは、ソウル駅、または龍山駅から羅州駅まで高速鉄道で2時間10分前後。ソウル高速バスターミナルから、羅州革新都市(ピッカラム市外バス停留所)まで約3時間30分。近隣の大都市である光州市の光州松汀駅から羅州駅までは高速鉄道で約10分。光州総合バスターミナル(U-square)から羅州市外バスターミナルまで市外バスで約40~45分、羅州革新都市(ピッカラム市外バス停留所)までは約30分の距離である。

  • 全羅道の由来
朝鮮半島の南西部を占める地域を広く全羅道(チョルラド、전라도)と呼び、全州市、羅州市の頭文字をとったものである。高麗時代の1018年に一帯を全羅州道を名付けたのが始まりで、これがのちに全羅道になった。

食文化の背景

羅州市の中心部はかつて栄山浦(ヨンサンポ、영산포)と呼ばれ、栄山江(ヨンサンガン、영산강)を船で遡上する際の最上流域に当たり、交通や物流の拠点として古くから栄えた。栄山江沿いに広がる平野部は羅州平野(ナジュピョンヤ、나주평야)と呼ばれ、広域市の光州市や、全羅南道務安郡霊岩郡咸平郡木浦市にもまたがる広大な穀倉地帯である。朝鮮時代には周辺地域から集まった租税の米穀を保管する漕倉(조창)が置かれ、中央に向けて運搬を行う拠点となった。現在も栄山江沿いの栄山洞(ヨンサンドン、영산동)には「栄山浦ガンギエイ通り(영산포 홍어거리)」があり、西海岸で水揚げされたガンギエイ(홍어)が運ばれて名産となった歴史を伝えている。

  • 羅州3大味通り
羅州市のウェブサイトでは、羅州錦城館(ナジュクムソングァン、나주금성관)一帯の「ナジュコムタン通り(나주곰탕거리)」、栄山洞の「栄山浦ガンギエイ通り(영산포 홍어거리)」、多侍面佳雲里(タシミョン カウルリ、다시면 가울리)の「九津浦ウナギ通り(구진포 장어거리)」を「羅州3大味通り(나주3대 맛거리)」として紹介している[2]
  • 五日市場の発祥地
羅州市を指して五日市場(오일장)の発祥地と呼ぶことがある。『成宗実録(성종신록)』1473年(成宗4年)2月11日の記録には、凶作だった1470年(庚寅年)に「全羅道の農民が自ら集まって市場を開き、これを「場門(장문)」と呼んだ」[3]とある。これに対して取り締まりの動きが出たが、羅州牧使の李永肩(イ・ヨンギョン、이영견)が反対を訴えたともあり、この記述から羅州市を発祥地のひとつと推測するものである。同じく『成宗実録(성종신록)』1472年(成宗3年)7月27日の記録には、「全羅道の務安などすべての村で商人たちが場門と呼び」[4]との記述があり、羅州市とともに全羅南道務安郡も五日市場の発祥地として語られることが多い。朝鮮時代から続く在来市場の「羅州邑内場(나주읍내장)」は、1970年代に城北洞(ソンブクトン、성북동)に移転したのち、2021年に他市場と統合する形で三都洞(サムドドン、삼도동)へと再移転し、現在は「羅州牧使コウル市場(나주목사고을시장)」の名前で歴史を受け継いでいる[5]

代表的な料理

 
ナジュコムタン

ナジュコムタン(羅州式の牛スープ/나주곰탕)

ナジュコムタン(나주곰탕)は、羅州式の牛スープ(「コムタン(牛スープ/곰탕)」の項目も参照)。ナジュ(나주)は地名の羅州、コムタン(곰탕)は牛スープを表す。羅州市の公式サイトでは、一般的なコムタンに比べて「牛骨の使用が少なく、牛外バラ肉(양지살)や牛スネ肉(사태)などの肉部位を煮込んでスープを作る」[6]と説明している。そのためスープの色合いは白濁せず、澄んだ色合いか、または粉唐辛子を振ることで赤茶けて見えることもある。羅州錦城館(ナジュクムソングァン、나주금성관)の付近に専門店が多く、一帯は「ナジュコムタン通り(나주곰탕거리)」と呼ばれる。1910年創業で韓国の飲食店として2番目に古い歴史を持つ「ハヤンチプ(하양집)」をはじめ、「ノアンチプ(노안집)」「ナムピョンハルメチプ(남평할매집)」といった有名店がある。
  • 由来
羅州市には広大な羅州平野があり、稲作が盛んであるとともに労働力として牛が多く使役されていた。また、物流の要衝として栄山浦牛市場(영산포 우시장)が売買の拠点となっていたこともあり、そもそも米と牛が身近であったことがナジュコムタンの発達した背景にあると語られる。
本格的にコムタンが普及したのは、1930年代後半以降とされ、この時期に日本から進出した缶詰工場の存在が大きくかかわっている。京都に本社を置く「竹中罐詰製造所(現、竹中罐詰株式会社)」は、1920年代に済州島を皮切りとして、1934年には羅州郡羅州邑月見町(現、羅州市竹林洞)にも工場を開いた[7]。当初はグリンピースや黄桃などの缶詰を生産しつつ、1937年頃から牛肉の缶詰を作り始めると、頭部や骨、内臓などの不要な部位が周囲へ大量に流れていった[8]。これらを利用して煮込んだコムタンが近隣の名物となり、現在の名声につながったと説明される。
一帯ではもっとも歴史の古い「ハヤンチプ(하양집)」は1910年の創業であるが、初代のウォン・パルレ(원판례)氏が前身となる「リュムン食堂(류문식당)」を開いた頃はヘジャンクッ(酔い覚ましのスープ/해장국)クッパプ(クッパ/국밥)を主に提供し、2代目(嫁)のイム・イスン(임이순)氏の時代にユッケピビムパプ(牛刺身載せビビンバ/육회비빔밥)ポクタン(フグのスープ/복탕)といったメニューを増やしたものの、コムタンの専門店となるのは3代目(孫)のキル・ハンス(길한수)氏が跡を継いだ1960年からである[9]。1969年に現在の「ハヤンチプ」に店名変更。現在はウォン・パルレ氏のひ孫にあたるキル・ヒョンソン(길형선)氏が4代目を継承している。
同じく老舗店の「ノアンチプ(노안집)」は1960年創業を掲げる。

チャンオグイ(ウナギ焼き/장어구이)

チャンオグイ(장어구이)は、ウナギ焼き(「チャンオグイ(ウナギ焼き/장어구이)」の項目も参照)。市中央部の多侍面佳雲里(タシミョン カウルリ、다시면 가운리)は九津浦(クジンポ、구진포)と呼ばれ、かつては栄山江を行き来する船着き場として賑わった。九津浦一帯は海水と淡水の混ざる汽水域で、1981年12月に栄山江河口堰ができる前までは天然ウナギの好漁場であった。九津浦のウナギはドジョウを食べて育つことから味がよいと高く評価されていた。現在は漁獲量の減少から養殖ウナギの利用が主流となっているが、一帯には老舗のウナギ料理専門店が集まっており、「九津浦ウナギ通り(구진포 장어거리)」として名声を誇る。専門店ではチャンオグイを、ソグムグイ(塩焼き、소금구이)とヤンニョムグイ(薬味ダレ焼き、양념구이)で提供するほか、チャンオタン(ウナギのスープ、장어탕)も用意している。同地域の有名店に「シヌンジャンオ(신흥장어)」「九津浦チェイルジャンオ(구진포제일장어)」「テスンジャンオ(대승장어)」などがある。
  • 由来
九津浦にウナギ料理の専門店ができたのは1940年代である[10]。一説によれば、日本でウナギの調理法を学んだソ・サンヒョン(서상현)氏が、九津浦で「ナルットジャンオ(나룻터장어)」(現在は閉店)を開いたのが始まりとされる[11]
  • 九津浦の由来
栄山江に12ヶ所ある湾曲部のうち、9番目にある船着き場として九津浦と名前がついた。

ホンオフェ(ガンギエイの刺身/홍어회)

ホンオフェ(홍어회)は、ガンギエイの刺身(「ホンオフェ(ガンギエイの刺身/홍어회)」の項目も参照)。市中心部の栄山洞(ヨンサンドン、영산동)には、「栄山浦ガンギエイ通り(영산포 홍어거리)」があり、ガンギエイ料理の専門飲食店と、家庭用や贈答用の[[ホンオフェ(ホンオフェを扱う販売店が集まっている。飲食店では[[ホンオフェ(ホンオフェのほか、ホンオフェに茹で豚と熟成キムチを添えたホンオサマプ(홍어삼합)や、ホンオエタン(ガンギエイの内臓のスープ、홍어애탕)、ホンオチム(ガンギエイの蒸し煮、홍어찜)などのメニューを提供する。有名店に「ホンオ一番地(홍어1번지)」「栄山浦ホンオ(영산포홍어)」などがある。
  • 由来
羅州市の栄山浦(ヨンサンポ、영산포)が、ガンギエイ(홍어)の町として有名になったきっかけは高麗時代の14世紀にさかのぼる。『高麗史』には「(黒山島の)島民が陸地に出て南浦の川辺で臨時に移住し、栄山県と呼んだ。恭愍王12年(1363年)に昇格して郡になった」[12]【原文1】との記述があり、ガンギエイ(홍어)の名産地として知られる黒山島(フクサンド、흑산도)から島民が南浦(現在の栄山浦)へと移住していたことがわかる。これは倭寇の侵略による空島政策だったと見られ、南浦にかわる名称の栄山県は、黒山島と隣接する栄山島(ヨンサンド、영산도)から取ったものと推定される。このとき島民が故郷の味を懐かしんでガンギエイを栄山浦まで運んだところ、その間に発酵が進んだことから、現在のような食べ方が定着したと考えられている。黒山島の島民は本来、鮮度のよいガンギエイを刺身で食べており、現在の黒山島でも発酵させず新鮮な状態で刺身にするのが主流である。
【原文1】「島人出陸, 僑寓南浦江邊, 稱榮山縣. 恭愍王十二年, 陞爲郡」
『茲山魚譜』(1814年)の記述
1814年に丁若銓の書いた魚類学書『茲山魚譜(자산어보)』には、ガンギエイについての記述があり、「刺身、焼き物、汁物、干物によい」【原文2】としたうえで、「羅州近郊に住む人たちは発酵させたガンギエイを好んで食べ、嗜好がまた異なる」【原文3】と紹介している[13]
【原文2】「宣鱠炙羹腊」
【原文3】「羅州近邑之人好食其鮾者嗜好之不全也」

ホンオエタン(ガンギエイの内臓のスープ/홍어애탕)

ホンオエタン(홍어애탕)は、ガンギエイの内臓のスープ。ホンオ(홍어)はガンギエイ。エ()は本来肝臓を意味するが、内臓全体ととらえることもある。タン()は鍋料理の意。ホンオエクッ(홍어애국)、ホンオエックッ(홍어앳국)とも呼ぶ。煮干し、昆布などのダシに、ガンギエイの内臓と軟骨、長ネギ、大麦若葉(보리나물)などを加えて煮込み、テンジャン(味噌、된장)と粉唐辛子などで味付けをする。ガンギエイの内臓は発酵させたものを用いるため、強いアンモニア臭を発するが、調理法によっては発酵させずに新鮮なもので作ることもある。ガンギエイ料理の専門店で、ホンオフェ(ガンギエイの刺身/홍어회)などとともにメニューに載る。

代表的な特産品

 
羅州梨(品種は秋黄)

羅州梨(나주배)

羅州市は韓国を代表する梨の名産地であり、地名を冠して羅州梨(ナジュベ、나주배)とも呼ばれる。2023年の生産量は3万7756トンで、全国18万3802トンの20.5%を占め、全市郡の1位である[14][15]。金川面石田里(クムチョンミョン ソクチョルリ、금천면 석전리)には、1992年4月に開館した「羅州梨博物館(나주배박물관)」がある。
  • 羅州梨の歴史
羅州梨の歴史を紐解くと、原三国時代からの歴史があると語られることが多い。これは『三国志』「魏書第30巻 烏丸鮮卑東夷伝」の馬韓に関する記述に「出大栗大如梨(梨のような大きさの栗がある)」[16]とあるのを根拠として、間接的に梨もあっただろうと推測するものである。
より具体的な記録としては、朝鮮時代の1454年に編纂された『世宗実録地理志(세종실록지리지)』に、当時の羅州牧(나주목)から中央に献上された物品として梨が含まれている[17]。ほかにも、1871年編纂の『湖南邑誌(호남읍지)』(第1巻 羅州)には「進貢」の項目に「生梨」との記述があり[18]、1897年編纂の『錦城邑誌(금성읍지)』にも「進貢」の項目に「生梨」があることから[19]、羅州梨は宮中御用達の品としてブランド化に一役買っている。『錦城邑誌(금성읍지)』には「物産」の項目にも「居平梨」との記述があり、居平県=現在の羅州市文平面(ムンピョンミョン、문평면)が名産地であったとわかる[20]
20世紀に入ると、日本人によって晩三吉、今村秋、長十郎などの日本産品種が多く持ち込まれた。1904年に羅州市へ渡った長崎県出身の松藤傳六が、1910年(1906年など諸説ある)に果樹園を開いたことをきっかけとして、大規模な栽培が広まったとされる[21]。1929年9月に京城府(現、ソウル市)で開かれた朝鮮博覧会では、当時の羅州郡から早生梨を出品した李棟奎(イ・ドンギュ、이동규)氏が銅牌を受賞している[22]

代表的な酒類・飲料

マッコリ

地元銘柄として、南道濁酒(남도탁주)の「チョンゴジプ羅州米生マッコリ(정고집 나주쌀 생막걸리)」や、茶道旵酒家(다도참주가)の「旵酒家生マッコリ(참주가 생막걸리)」などがある。茶道旵酒家は、2024年に農林畜産食品部が推進する「訪ね行く醸造場(찾아가는 양조장)」に選定された[23]

飲食店情報

以下は韓食ペディアの執筆者である八田靖史が実際に訪れた店を列挙している。

  • テッチャリ羅州コムタン(탯자리나주곰탕)
住所:全羅南道羅州市チンゴサッキル5-1(錦城洞18-5)
住所:전라남도 나주시 징고샅길 5-1(금성동 18-5)
電話:061-332-3377
料理:ナジュコムタン(羅州式の牛スープ)
  • ハヤンチプ(하얀집)
住所:全羅南道羅州市錦城館キル6-1(中央洞48-17)
住所:전라남도 나주시 금성관길 6-1(중앙동 48-17)
電話:061-333-4292
料理:ナジュコムタン(羅州式の牛スープ)

エピソード

韓食ペディアの執筆者である八田靖史は、2005年11月に初めて羅州市を訪れた。友人から「羅州には赤いコムタンがある」と聞いたのがきっかけで、地元の人から情報を得ながら2軒の店をハシゴして食べ歩いた。赤さの理由は、じっくり煮込んで赤茶けた色合いの澄んだスープに粉唐辛子を振って食べることによるものであった。当時執筆していたメールマガジンに「大釜料理からは想像がつかないほど上品な味。澄んだスープには雑味がなく、肉のうまみだけが突出している」[24]との感想を残している。

脚注

  1. 주민등록 인구 및 세대현황 、行政安全部ウェブサイト、2024年11月17日閲覧
  2. 나주3대 맛거리 、羅州市ウェブサイト、2024年5月12日閲覧
  3. 朝鮮王朝実録(成宗実録 成宗4年2月11日) 、朝鮮王朝実録、2024年5月12日閲覧
  4. 朝鮮王朝実録(成宗実録 成宗3年7月27日) 、朝鮮王朝実録、2024年5月12日閲覧
  5. 나주읍내장의 명맥을 이은 나주목사고을시장 、知識N文化、2024年5月12日閲覧
  6. 나주곰탕거리 、羅州文化観光、2024年5月15日閲覧
  7. 羅州の蔬菜鑵詰, 竹中社長を迎へて懇談し將來の擴張を期す(京城日報社1935年5月30日付記事) 、韓国国立中央図書館、2024年11月14日閲覧
  8. 4대를 잇는 나주곰탕의 원조 명가, 나주 하얀집 、地域N文化、2024年11月14日閲覧
  9. HAYANJIB HISTORY 、ハヤンチプ公式ウェブサイト、2024年11月14日閲覧
  10. 나주 구진포 장어거리 、韓国観光公社(대한민국 구석구석)、2024年9月1日閲覧
  11. 구진포장어의 유래(新聞記事の転載?) 、九津浦「ナルットジャンオ」ブログ?、2024年9月1日閲覧
  12. 高麗史 > 志 巻第11 > 地理 二 > 全羅道 > 羅州牧 > 沿革 、韓国史データベース、2024年9月6日閲覧
  13. 玆山魚譜 / 筆寫本 / 巻2 無鱗類 鱝魚(P48) 、高麗大学校図書館、2024年9月6日閲覧
  14. 2023년 가을배추·무, 콩, 사과, 배 생산량조사 결과 、統計庁ウェブサイト、2024年11月16日閲覧
  15. 전라남도 나주시_배 생산면적 현황 、公共データポータル、2024年11月16日閲覧
  16. 三國志/卷30 、維基文庫(中国語版ウィキソース)、2024年11月16日閲覧
  17. 세종실록 151권, 지리지 전라도 나주목 、朝鮮王朝実録ウェブサイト、2024年11月17日閲覧
  18. 호남읍지(湖南邑誌) / 1책(40면/286) 、奎章閣韓国学研究院ウェブサイト、2024年11月17日閲覧
  19. 금성읍지(錦城邑誌) / 제1책(17/83) 、高麗大学校海外韓国学資料センター、2024年11月17日閲覧
  20. 금성읍지(錦城邑誌) / 제1책(19/83) 、高麗大学校海外韓国学資料センター、2024年11月17日閲覧
  21. 나주배의 재배연혁 、羅州市ウェブサイト、2024年11月17日閲覧
  22. 나주배박물관 소장, 조선박람회 상장의 가치는? 、園芸学者ホ・ボック(허복구)氏のブログ、2024年11月17日閲覧
  23. 농업회사법인 다도참주가 、訪ね行く醸造場ウェブサイト、2024年11月17日閲覧
  24. コリアうめーや!!第117号「羅州名物の赤いコムタンを食べる!!」 、韓食生活、2024年9月1日閲覧

外部リンク

関連サイト
制作者関連サイト

関連項目