オデン(おでん/오뎅)
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オデン(오뎅)は、おでん。日本語の「おでん」という言葉が、韓国でも定着して使われている。オデンは料理名だけでなく、オデンに使用される魚肉練り製品(揚げかまぼこ)の総称としても使用される。主に屋台料理として町中で販売され、棒状ないし板状の揚げた練り製品を串に刺して煮込み、好みによって薬味醤油をつけて食べるのが一般的である。居酒屋などではオデンを鍋料理として提供し、これをオデンタン(おでん鍋/오뎅탕)とも呼ぶ。
名称
オデンは、日本語の「おでん」に由来する。料理名であるとともに、魚肉練り製品(揚げかまぼこ)のこともオデンと呼ぶことが多い。韓国語の固有語ではオムク(어묵)とも呼ぶ。オムクの「オ(어)」は魚を意味し、ムク(묵)はでんぷんなどを固めた食品を意味する。韓国ではオデンが日本語であることから、固有語であるオムクに置き換えることが推奨されてもいるが[1]、本辞典では広範に使用されている「オデン」を使用する。発音表記は[오뎅]。
概要
オデンは魚肉練り製品(揚げかまぼこ)を串に刺し、煮干し、昆布、大根などを煮込んだスープで煮込んで作る。日本料理のおでんにルーツがあるが、韓国では主に屋台料理として発達し、キムパプ(海苔巻き/김밥)、トッポッキ(餅炒め/떡볶이)などとともに、小腹を満たすための軽食として定着している。日本料理のおでんに比べると具の種類が少なく、練り製品を主として、稀に餅やコンニャクが同じく串に刺した状態で加わる。練り製品としてはきりたんぽのような棒状に成形したもの、薄い板状に仕上げたものの2種類が大半であり、板状のものはジグザグに折り畳んで串に刺す。大根、卵、はんぺん、ちくわといった日本で定番の具はまず見かけない。南部の地域を中心にワタリガニでダシを取る屋台もある。
食べ方
屋台では串に刺さったオデンを自由に取って食べてよい。会計は最後に食べた本数を申告して計算する。
- オデンの汁
- オデンの汁(오뎅 국물)は屋台においてスープがわりに飲まれる。紙コップやプラスチックのひしゃくが用意されており、オデンや他の料理を注文した客は自由に飲んでよいことになっている。韓国でも屋台のオデンは冬の風物詩であり、オデンの汁が恋しくて屋台に足を運ぶと語られることも多い。
- 薬味醤油
- 屋台の店頭には薬味醤油が用意されており、串に刺したオデンをこれにつけて味わう。薬味醤油には刻んだ青唐辛子も入ってピリ辛に仕上げてある。店によっては薬味醤油を刷毛で塗ったり、スプーンでかけたり、霧吹きに入れてシュッと吹きかけるといった方式を採用しているところもある。
食材としての利用
韓国では魚肉練り製品(揚げかまぼこ)のこともオデン(またはオムク)と呼び、さまざまな料理に利用する。そのまま野菜と炒めたものは、オデンボックム(練り製品の炒め物、오뎅볶음)と呼んで家庭での常備菜や飲食店での副菜として多く用いられる。キムパプ(海苔巻き/김밥)や、トッポッキ(餅炒め/떡볶이)といった料理の具に加えることも多い。
歴史
オデンに用いられる魚肉練り製品に関する文献上の初出は18世紀前半だが、本格的に日本から伝えられたのは19世紀後半から20世紀初頭にかけてと考えられる。韓国では日本から近い釜山市がオデンの本場とされており、1876年の釜山港開港を機に、日本人が増加したことがきっかけになった。新聞の報道によれば、1916年にはすでに釜山だけで16軒の「蒲鉾屋」があり[2]、1920年代には釜山、また同じく南部の港町である慶尚南道の統営にて製造業者向けの講習会も開催されるなど[3][4]、この時期から広く普及していったと考えられる。また、1920年代後半のソウルには料理としてのオデンを販売する屋台が登場している。
文献上の記録
- 『謏聞事説』(18世紀前半?)の記述
- 18世紀前半と推定される時期に、李時弼(李杓との説もある)によって書かれた『謏聞事説(소문사설)』という文献には、「可麻甫串(가마보곶)」という料理が記載されている。可麻甫串は「カマボコッ」と読み、日本料理のかまぼこが伝えられたものと見られる。魚肉を用いた日本由来の練り製品として、韓国ではオデンのルーツとして紹介されることが多い。その原文は以下の通りである[5]。
- 可麻甫串(かまぼこ)
- 「ボラやスズキ、タイを薄切りにする。また、牛肉と豚肉、キクラゲ、イワタケ、シイタケ、ナマコなど、さまざまな材料と、長ネギ、唐辛子、セリなどの薬味を刻んで具を作る。薄切りにした魚1層に、具を1層載せ、また魚を1層、具を1層と載せて3~4層を載せた後、巻物のように丸く巻いて片栗粉の衣をつけて沸騰した湯で茹で、包丁で薄切りにする。魚肉と具が交互に巻かれているのがまるで太極模様のようである。これをコチュジャンにつけて食べる。具として入れたさまざまな薬味を5色にそれぞれ分けて作っても、包丁を入れたときに模様が美しく見える」(原文1)。
- 【原文1】
- 可麻甫串
- 「秀魚或鱸魚농어或道味魚切作片,另以牛肉猪肉木耳石耳蔈古海蔘諸味等及葱苦艸芹諸物為末,魚片一層加饀物一層,又魚片一層又加饀物一層,如是三四層後,捲如周紙樣,以菉末為衣以沸湯煮出後,以刀切作片則魚片及饀物相捲回回如太極樣,乃以苦艸醬食之,饀物諸味分五色為之,刀切後紋理尤佳」
- 가마보곶(韓国伝統知識ポータルによる現代語訳)
- 「숭어나 농어, 도미를 썰어서 엷은 조각으로 만든다. 따로 쇠고기와 돼지고기와 목이버섯, 석이버섯, 표고버섯, 해삼 등 여러 가지 재료와 파, 고추, 미나리 등 여러 가지 양념을 다져 소를 만든다. 생선편육 한 층에 소를 한 층 놓고 또 생선편육을 한 층 놓고 소를 한 층 놓고 이와 같이 3~4층 놓은 후에 두루마리 종이를 말듯이 둥글게 말아서 녹말 가루로 옷을 입혀 펄펄 끓는 물에 삶아내어 칼로 썰어 편육을 만든다. 어육편과 소가 서로 말려 돌아간 것이 마치 태극모양과도 같다. 이것을 고추장에 찍어 먹는다. 소로 넣는 여러 가지 양념을 5색으로 각각 나누어서 넣어 만들면 칼로 자른 후에 문채 나는 조리가 더욱 아름답게 보인다.」
19世紀後半
- 韓福眞の報告
- 韓福眞著『私たちの生活100年・飲食(우리 생활 100년-음식)』 には、19世紀後半頃の水産加工品についての記述があり、「日本の伝統食品であるカマボコを統営で作り始め」たとしている(原文2)。統営は慶尚南道に属し、南海岸に面する港町である。その典拠については書内で明らかにされていない。
- 【原文2】「일본의 전통 식품인 어묵(가마보코)을 통영에서 만들기 시작하였고」[6]
1910年代
- 釜山日報の記事
- 1916年10月21日付けの紙面には、「蒲鉾屋に注意 ▽虎疫予防に就て」という記事が掲載されている。釜山署における食中毒への対策を報じたもので、記事は日本語で書かれており、全文は以下の通りである。「釜山には蒲鉾屋が十六軒ある。魚類を使用するので時節柄大(おおい)に注意の必要あるより、釜山署では昨廿日(はつか)全部を喚び出して衛生上の注意を加へたが、従来蒲鉾に用いた魚屑は肥料以外に売る事は出来ぬ事となってゐるにも拘はらず盛んに朝鮮人に売ってゐた者もあったので厳重に今後を戒められた者があった」(原文に句読点を追加、漢字は新字に変更、一部に読み仮名を追加)[2]
1920年代
1920年代に入ると練り製品の製造はさらに盛んとなる。また、1920年代後半にはソウルで料理としてのオデンも屋台で販売された。
- 釜山日報の記事
- 2011年3月8日付けの紙面には、「[釜山の老舗] ① '釜山オムク' サムジン食品・ヨンジン食品」という記事があり、釜山におけるオデンの歴史を紐解いている。記事内では「1924年、朝鮮総督府が発行した『朝鮮の市場』という本に『富平市場は米、オムク(練り製品)、野菜、青果物などが主要な種類を成した』との記録が出てくる。おそらく釜山オムクの歴史を確認できる最初の記録ではないかと思う」と述べている(原文3)。この内容は他所でも引用されて韓国、また釜山におけるオデンの歴史を語る重要な資料とされているが、実際にその典拠である『朝鮮の市場』を見てみると、「富平市場(当時は富平町市場)」の項目に該当する記述は見当たらない[7]。
- 【原文3】「1924년 조선총독부에서 발행한 '조선의 시장'이란 책에 '부평시장은 쌀, 어묵, 채소, 청과물 등이 주종을 이루었다'라는 기록이 나온다. 아마도 부산어묵의 역사를 확인할 수 있는 최초의 기록이 아닐까 싶다.」[8]
- 釜山日報の記事
- 1925年9月17日付けの紙面には、慶尚南道の統営で実施される蒲鉾製造講習の案内が掲載されている。記事は日本語で書かれており、「蒲鉾製造講習 二十日より二十日間」という見出しとともに以下の文章が続く。「(統営)統営郡にては今回当地蒲鉾製造業者のために来る九月二十日より向う八日間の予定を以て蒲鉾製造講習会を開催する事となり、其の要する経費は本道より交附される筈なるが、講習生は当地蒲鉾製造業者及び其他一般希望者等にて、講習種目は関西向き各種製品製造法ならびに輸出向き罐詰製造法等にて、講師としては斯業界の先進地たる愛媛県より統治技術に優秀なる者を招聘する筈である」(原文に句点を追加、漢字は新字に変更)[3]。
- 東亜日報の記事
- 1925年10月2日付けの記事では、同年9月28日に当時の釜山府南浜町(現在の釜山市中区南浦洞)にて、現地の蒲鉾業者を集めた蒲鉾講習会を慶南水産会という団体が開催したと報じている[4]。
- 釜山日報の記事
- 1926年10月5日付けの紙面には「中俊商店の蒲鉾」という記事があり、釜山府南浜2丁目(現在の釜山市中区南浦洞)にある「中俊商店」の蒲鉾が紹介されている。記事は日本語で書かれており、「釜山南浜二丁目中俊支店蒲鉾部製造の蒲鉾は昨年末発売以来、日尚ほ浅きにも拘らず一般卸小売の需要家から非常なる好評を受け、毎日の注文が応じきれない程の盛況振りを示してゐるが尚ほ同店独特のゴマ入蒲鉾は味附きの昆布を小さくきざみこんだ粋なもので目先の変って居ることと味の良いのとで進物用として公表を受けていると(紹介)」(原文に句点を追加、漢字は新字に変更)とある[9]。
- 東亜日報の記事
- 1927年9月25日付けの「東亜日報」には、「優良水産製品に補助金を交付」という記事があり、統営郡の優良水産製品として「蒲鉾」があげられている[10]。
- ソウルのコンニャク売り
- 釜山や統営を中心に練り物製造の文化が発達したのに対し、ソウルでは1920年代後半から屋台で料理としてのオデンを扱った。作家、趙豊衍(조풍연)の回顧によれば、当時は「天ぷらと肉、それにコンニャクの三種類」を大鍋で扱ったとしている[11]。それぞれの具についての説明はないが、西日本でも揚げた練り製品を天ぷらと呼ぶ地域があるように、ここでの天ぷらも練り製品であると考えられる。
- 趙豊衍の報告
- 1914年生まれの作家、趙豊衍は著書『韓国の風俗-いまは昔-』にて、1920年代後半のソウルにおけるオデン事情を回顧している。当時の京城府貫鉄町(現在のソウル市鍾路区貫鉄洞)には「優美館(우미관)」という映画館があり、その周辺でオデンを販売した通称「コンニャク売り」について以下のように述べている。
- 「コンニャク売りというのは、映画館の前に大きな鍋をしかけ、俗にいう『おでん』を売っていた店である。天ぷらと肉、それにコンニャクの三種類だけだったが、これを串に刺して売っていた。天ぷらとコンニャクは一銭、肉は二銭だった。観劇を終え、劇場から出てきて、こいつを一本か二本つまむ。そんな感じの食べ物だ。その店でうどんを売るようになった。一杯五銭だった。だから、これにコンニャクを一串つければ、六銭になる計算だ。優美館の前にコンニャク売りは、これで金を儲け、向かいにあった日本人の清水運動具店の場所を買い取り、二階建てのうどん屋を出した。この店が、現在の『粉食(小麦粉やそば粉でこしらえた食べ物)』センター」の元祖だというから、始まりは一九二七年頃ということになる。うどん一杯が五銭(日本人の店では七銭)。味付けを韓国人の口に合わせて濃いめにし、量を多くしてこれに沢庵を一切れつけた。うどんに沢庵をつけるようになったのは、この時からである。おでんも売っていたから、うどんの他におでんを二本ほどつけ、全部で七銭も食べれば上等だった」[11]
1930年代
1930年代に入ると釜山、統営といった南部の港町だけでなく、幅広い地域での蒲鉾製造が行われるようになった。
- 釜山日報の記事
- 1930年12月13日付けの紙面には、「忠南大川名物の蒲鉾 遠く満州迄進出」という記事が掲載されている。忠南大川とは現在の忠清南道保寧市大川洞を指し、この地域にあった「高木商店」の蒲鉾人気を報じている。記事は日本語で書かれており、全文は以下の通りである。「(天安)忠南大川は将来忠南唯一の漁港として嘱目されて居るだけありて魚類は非常に豊富であるので、同地高木商店の蒲鉾は大川名物として大(おおい)に賞賛せられ京南沿線各地京龍地方は勿論、南は大邱、北は遠く満州に迄搬出されて、需要益々増加するので製造元の高木商店は天手古舞(てんてこまい)の繁忙を極めて居るとのこと」(原文に句点を追加、漢字は新字に変更、一部に読み仮名を追加)[12]
- 釜山日報の記事
- 1931年1月17日付けの紙面には、「咸興地方に於ける蒲鉾の需要増加 統営産品が大持て」という記事が掲載されている。統営産の蒲鉾人気を報じたもので、記事は日本語で書かれており、全文は以下の通りである。「(咸興)咸興地方に於ける蒲鉾の需要は人口の増加に伴ふて著るしく激増。地元産品のみでは充分需給調節を計る事は不可能である為、仁川方面から釜山、統営等の生産品が続々入荷され、相当の取引値段で消化されているが、此の中で品質から味に至る迄、最も賞用されてゐるのは統営産品で、釜山地方で製造されるものは逐年品質は勿論、味の点も落ちて行くと云ふので需要家筋は統営産品々々と其入荷を待ちつつあるの現状である」(原文に句読点を追加、漢字は新字に変更)[13]
- 『全国飲食料業界大鑑 満鮮の部』の記事
- 1933年に帝国飲食料新聞社が出版した『全国飲食料業界大鑑 満鮮の部』という書籍には、「朝鮮業界人名録」として事業者の名簿がまとめられており、「光州の部」に「蒲鉾製造」を取扱品とする「中村支店」という社名が記載されている[14]。本書の名簿内で蒲鉾製造とあるのはこの一社だけで、住所は黄金町となっており、現在の光州市東区黄金洞にあったと考えられる。
- 東亜日報の記事
- 1934年6月28日付けの「東亜日報」(二面)には東京の隅田川で起きた事件についての記事があり、その被害者の職業として「オデン(오뎅)」の商売をしている人物との記載がある。[15]。
1950年代
日本統治時代まで魚肉練り製品の製造業者は日本人が多かったが、終戦後は韓国人の経営へと移行した。1953年創業の「サムジンオムク」をはじめ、現在まで営業を続ける老舗メーカーもある。
- サムジンオムクの創業
- 釜山市影島区蓬莱洞に本社を置く「サムジンオムク(삼진어묵)」は、1950年に蓬莱市場にて練り製品の製造を始めた。創業者のパク・ジェドク(박재덕)氏は日本で練り製品(オムク)の技術を学んでおり、市場の露店から事業を始めて、1953年には「サムジン食品」という名前で会社として立ち上げた。現在の韓国に残る練り製品のメーカーとしてはもっとも古い。
1960年代
1960年代に入ると釜山では居酒屋で大皿に盛り付けた日本式のオデンを提供する店が登場し始めた。練り製品や牛スジ、魚介などを具とした大皿料理のオデンは釜山の郷土料理として地位を確立している。韓食ペディアの執筆者である八田靖史は著書『食の日韓論 ボクらは同じものを食べている』にて、釜山市中区南浦洞に位置する居酒屋「白光商会(백광상회)」のオデンを取り上げ、「定番である練り物に加え、牛スジ、コンニャク、サザエ、カマボコ、ちくわ、カニカマ、巾着、大根、サトイモ、エビ、タコ、コンブ、キャベツ、ゆで卵、餅と16種類もの具材が入って出てきた。ダシ汁にはかつおぶし、昆布、煮干し(サッパ)のほか、牛骨、干しエビ、干しダラも加えているのが韓国らしいところだろうか」と述べている[16]。
- 釜山における日本式オデンの台頭
- マラトンチプの新メニュー
- 1959年に釜山市釜山鎮区釜田洞で開店した居酒屋「マラトンチプ(마라톤집)」は、店名でもありマラソンを意味する「マラトン(海鮮チヂミ、마라톤)」と、再建を意味する「チェゴン(海鮮野菜炒め、재건)」というユニークなネーミングの料理を創業からの看板メニューとしている。現在の場所に移転した1963年より大皿料理のオデンを新メニューとして追加し、こちらも現在まで人気料理のひとつとして支持を受けている[17]。
- 白光商会の開店
- 釜山市中区南浦洞に位置する居酒屋「白光商会(백광상회)」は大皿料理のオデンを看板料理としている。看板には「60年伝統」の文字があり、1950~60年代の開店と推定される。
- ミョンソンフェッチプの開店
- 1968年に釜山市東区水晶洞にて、刺身店の「ミョンソンフェッチプ(명성횟집)」が開店した。この店ではオデンを自慢料理にしており、オデンタン(おでん鍋/오뎅탕)や、オデンペッパン(おでん定食、오뎅백반)が人気を集めている。
- 京畿道での事例
- オデン食堂の開店
- 1960年に京畿道議政府市議政府洞で開店した「オデン食堂(오뎅식당)」は、オデンを販売する屋台としてスタートした。現在は韓国でも元祖格のプデチゲ(ソーセージ鍋/부대찌개)専門店として有名だが、店名は創業当初のまま「オデン食堂」としている。
2000年代
- パルガンオデンのブーム
- 2004年にプルタク(激辛のグリルチキン/불닭)の流行をきっかけとした激辛ブームが起こった。このブームに乗って屋台でも、パルガンオデン(辛口のオデン、빨간오뎅)を出す店が増えた。
- オデンバーのブーム
- 2004年から2005年にかけて、テーブルやカウンターの中央に大きなオデンのケースを用意する、オデンバー(오뎅바)と呼ばれる日本風居酒屋が流行した。
2010年代
- オデンコロッケ(オムクコロッケ)のブーム
- 釜山市影島区蓬莱洞に本社を置く「サムジンオムク(삼진어묵)」は、練り製品の中に具を詰めて揚げた「オムクコロッケ(어묵고로케)」を2014年より発売した。韓国におけるコロッケ(고로케)とは日本の芋コロッケなどとは異なり、パン生地に具を詰めて揚げた揚げパンの一種を意味する。韓国では2012年末からコロッケのブームがあり、それがオムクコロッケの背景にもなっている。
種類
オデンには次のような種類がある。
- オデンタン
- オデンタン(おでん鍋/오뎅탕)は、鍋で提供する一品料理としてのオデン。タンは漢字で「湯」と書いて鍋料理を意味する。串に刺した練り製品のオデンを春菊、豆腐などとともに鉄鍋、土鍋などで提供する。主に居酒屋や、アルコールを販売する屋台などで提供されるメニューである。
- パルガンオデン
- パルガンオデン(빨간오뎅)は、オデンの煮汁に粉唐辛子やコチュジャン(고추장)などを加えて辛口に仕立てたもの。パルガン(빨간)は「赤い」という意味を表す。ヤンニョムオデン(양념오뎅)とも呼び、ヤンニョム(양념)は薬味ダレを表す。韓国では2004年に激辛ブームが起こり、ソウルなどでもパルガンオデンが人気を博した。大邱市や、忠清北道堤川市の郷土料理としても知られる。
- オデンボックム
- オデンボックム(오뎅볶음)は、練り製品をフライパンなどで炒めたもの。ボックム(볶음)は炒め物を表す。練り製品のみならず、タマネギやニンジンなどの野菜も加えることが多い。家庭で作られる惣菜のひとつで、飲食店では副菜のひとつとして登場することが多い。
- オデンウドン
- オデンウドン(오뎅우동)は、串に刺したオデンをウドン(うどん/우동)の具として載せたもの。
- オデンラミョン
- オデンラミョン(오뎅라면)は、ラミョン(ラーメン/라면)の具に練り製品を加えたもの。なお、韓国におけるラーメンは、インスタントの袋ラーメンを調理したものが一般的である。
- ハッバー
- ハッバー(핫바)は揚げた魚肉練り製品を串に刺し、ケチャップやマスタードをかけて食べる軽食料理。名前のハッバーは「hot bar」に由来する。魚介やソーセージ、チーズなどと組み合わせることも多く、手軽なスナックとして町中の屋台や、高速道路のサービスエリア、コンビニエンスストアなどで販売されている。
- オデンコロッケ
- オデンコロッケ(오뎅고로케)は、魚の練り製品に具を詰めて揚げた料理。オムクコロッケ(어묵고로케)とも呼ぶ。コロッケ(発音はコロケ)は、日本の芋コロッケなどとは異なり、韓国では具を詰めた揚げパンを指す。パン生地を練り製品に変えたアレンジ料理であり、2014年に釜山の「サムジンオムク(삼진어묵)」によって発売された。
日本における定着
オデンはもともと日本料理であるため、本項目では韓国式のオデンが再び日本に戻ってきてからの定着について述べる。韓国式のオデンがいつ日本へ入ってきたかは不明だが、韓食ペディアの執筆者である八田靖史は少なくとも2004年末には、東京の新大久保の韓国スーパー「南大門市場」の店頭にて串に刺さった韓国式のオデンを食べている。
エピソード
- 韓食ペディアの執筆者である八田靖史は留学時代にオデンウドンを食べ、串に刺さったオデンがウドンの具として載って出てくるのを見て大きな衝撃を受けた。また、韓国人が魚の練り製品をオデンと呼ぶことにも違和感を覚え、留学後の2001年3月21日より書き始めたメールマガジン「コリアうめーや!!」の創刊号にて激しくオデンウドンを糾弾している[18]。
地域
- 辛いタレで煮込んだパルガンオデン(빨간오뎅)が有名。堤川中央市場の名物として人気が高い。
- 辛いタレで煮込んだヤンニョムオデン(양념오뎅)が有名。ワタリガニを加えて魚介の風味を効かせ、大量のモヤシと一緒に提供するのが特徴。西門市場の名物としても知られる。
- 韓国ではオデンの本場として知られる。老舗の練り製品メーカーや、大皿にたくさんの具を盛り付ける日本風の老舗オデン店が多数存在する。釜山で製造された練り製品は釜山オデン(부산오뎅)、または釜山オムク(부산어묵)とも総称されブランド化している。
飲食店情報
以下は韓食ペディアの執筆者である八田靖史が実際に訪れた店を列挙している。
<釜山>
- 白光商会(백광상회)
- 住所:釜山市中区南浦キル25-3(南浦洞2街15-1)
- 住所:부산시 중구 남포길 25-3(남포동2가 15-1)
- 電話:051-246-3089
- 備考:南浦洞の老舗オデン店。大皿に約15種類の具材を盛り付けて提供。
脚注
- ↑ '오뎅'의 순화어 、国立国語院ウェブサイト、2017年11月3日閲覧
- ↑ 2.0 2.1 蒲鉾屋に注意 ▽虎疫予防に就て 、韓国史データベース、2017年11月2日閲覧
- ↑ 3.0 3.1 蒲鉾製造講習 二十日より二十日間 、韓国史データベース、2017年11月2日閲覧
- ↑ 4.0 4.1 慶南水産會에서 蒲鉾講習會(釜山) 、韓国史データベース、2017年11月2日閲覧
- ↑ Somunsaseol(謏聞事說) 、韓国伝統知識ポータル、2017年10月28日閲覧
- ↑ 한복진, 2001, 『우리 생활 100년-음식』, 현암사, P31
- ↑ 朝鮮の市場 、国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号218、P382)、2017年10月27日閲覧
- ↑ [부산의 老鋪 ① '부산어묵' 삼진식품·영진식품] 、釜山日報、2017年10月28日閲覧
- ↑ 中俊商店の蒲鉾 、韓国史データベース、2017年11月2日閲覧
- ↑ 優良水產製品에 補助金을交付 、NAVERニュースライブラリー、2017年10月28日閲覧
- ↑ 11.0 11.1 趙豊衍, 1995, 『韓国の風俗-いまは昔-』, 南雲堂, P37
- ↑ 忠南大川名物の蒲鉾 遠く満州迄進出 、韓国史データベース、2017年11月2日閲覧
- ↑ 咸興地方に於ける蒲鉾の需要増加 統営産品が大持て 、韓国史データベース、2017年11月2日閲覧
- ↑ 全国飲食料業界大鑑 満鮮の部 、国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号58、P11)、2017年10月27日閲覧
- ↑ 大都市(대도시)의 그늘 밑 임자잃은손목발목 、NAVERニュースライブラリー、2017年10月28日閲覧
- ↑ 八田靖史, 2016, 『食の日韓論 ボクらは同じものを食べている』, 三五館, P108
- ↑ [부산의 老鋪 ⑥ 마라톤] 、釜山日報、2017年10月29日閲覧
- ↑ コリアうめーや!!創刊号 、韓国伝統知識ポータル、2017年10月28日閲覧