「サムゲタン(ひな鶏のスープ/삼계탕)」の版間の差分

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:朝鮮時代後期から日本統治時代にかけての文献を見ると、鶏の腹に高麗人参を詰めて煮出し、その汁を薬湯として飲んでいた話が多く出てくる。これを参鶏湯([[삼계탕2|삼계탕]])、鶏参湯([[계삼탕2|계삼탕]])、参鶏膏([[삼계고]])、鶏参膏([[계삼고]])、参鶏飲([[삼계음]])などと呼び、薬湯または滋養強壮飲料として富裕層を中心に親しまれた。1920年代頃からはもち米を入れて煮出す製法も見られ、これらがのちに鶏肉、もち米、高麗人参を具とみなす料理へと発展したのではないかと推測できる。以下は見つかった範囲内の史料で、さらにさかのぼる可能性がある。
 
:朝鮮時代後期から日本統治時代にかけての文献を見ると、鶏の腹に高麗人参を詰めて煮出し、その汁を薬湯として飲んでいた話が多く出てくる。これを参鶏湯([[삼계탕2|삼계탕]])、鶏参湯([[계삼탕2|계삼탕]])、参鶏膏([[삼계고]])、鶏参膏([[계삼고]])、参鶏飲([[삼계음]])などと呼び、薬湯または滋養強壮飲料として富裕層を中心に親しまれた。1920年代頃からはもち米を入れて煮出す製法も見られ、これらがのちに鶏肉、もち米、高麗人参を具とみなす料理へと発展したのではないかと推測できる。以下は見つかった範囲内の史料で、さらにさかのぼる可能性がある。
  
;『霞隠日録』(1856年)の記述
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:;『霞隠日録』(1856年)の記述
 
:朝鮮時代後期の両班、李愚錫(イ・ウソク、이우석)は1854年から1903年までの日記を残しており、これを筆写してまとめた『霞隠日録(하은일록)』には、1856年6月25日(陽暦では7月26日)に人参鶏膏([[인삼계고]])を煎じて父に3度飲ませたとの記述がある<ref>[https://db.history.go.kr/modern/level.do?levelId=sa_108_0010_0030_0050 한국사료총서/霞隱日錄/霞隱日錄 一/丙辰/六月] 、韓国近代史料データベース、2024年8月12日閲覧</ref>。この日は中伏([[중복]])に当たる。
 
:朝鮮時代後期の両班、李愚錫(イ・ウソク、이우석)は1854年から1903年までの日記を残しており、これを筆写してまとめた『霞隠日録(하은일록)』には、1856年6月25日(陽暦では7月26日)に人参鶏膏([[인삼계고]])を煎じて父に3度飲ませたとの記述がある<ref>[https://db.history.go.kr/modern/level.do?levelId=sa_108_0010_0030_0050 한국사료총서/霞隱日錄/霞隱日錄 一/丙辰/六月] 、韓国近代史料データベース、2024年8月12日閲覧</ref>。この日は中伏([[중복]])に当たる。
  
;『続陰晴史』(1887年)の記述
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:;『続陰晴史』(1887年)の記述
 
:朝鮮時代末期の政治家、金允植(キム・ユンシク、김윤식)の日記『続陰晴史(속음청사)』には、1887年9月16日の朝に参鶏膏([[삼계고]])を飲んだことが書かれている<ref>[http://db.history.go.kr/id/sa_013_0010_0020_0050 한국사료총서/續陰晴史 上/續陰晴史 卷一/高宗 24年 丁亥 5月~12月/高宗 24年 丁亥 9月] 、韓国近代史料データベース、2024年8月17日閲覧</ref>。
 
:朝鮮時代末期の政治家、金允植(キム・ユンシク、김윤식)の日記『続陰晴史(속음청사)』には、1887年9月16日の朝に参鶏膏([[삼계고]])を飲んだことが書かれている<ref>[http://db.history.go.kr/id/sa_013_0010_0020_0050 한국사료총서/續陰晴史 上/續陰晴史 卷一/高宗 24年 丁亥 5月~12月/高宗 24年 丁亥 9月] 、韓国近代史料データベース、2024年8月17日閲覧</ref>。
  
;『避乱録』(1894年)の記述
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:;『避乱録』(1894年)の記述
 
:『避乱録』は甲午農民戦争(1894~95年)で、[[忠清南道の料理|忠清南道]][[公州市の料理|公州市]]から避難をした光山金氏(광산김씨)のある人物が残した記録である。避難の途中で体調を崩した妻に、参鶏飲([[삼계음]])を飲ませたとの記述がある<ref>[https://e-donghak.or.kr/archive/?menu=132&mode=view&code=prd_0066_001 避亂錄 피난록(prd_0066_081)] 、東学農民革命史料アーカイブ、2024年8月12日閲覧</ref>。
 
:『避乱録』は甲午農民戦争(1894~95年)で、[[忠清南道の料理|忠清南道]][[公州市の料理|公州市]]から避難をした光山金氏(광산김씨)のある人物が残した記録である。避難の途中で体調を崩した妻に、参鶏飲([[삼계음]])を飲ませたとの記述がある<ref>[https://e-donghak.or.kr/archive/?menu=132&mode=view&code=prd_0066_001 避亂錄 피난록(prd_0066_081)] 、東学農民革命史料アーカイブ、2024年8月12日閲覧</ref>。
  
 
=== 日本語の記録 ===
 
=== 日本語の記録 ===
;『日本農業雑誌(第7巻第13号)』(1911年)
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:;『日本農業雑誌(第7巻第13号)』(1911年)
 
:1911年12月に刊行された『日本農業雑誌(第7巻第13号)』には、[[北朝鮮の料理|黄海北道開城市]]在住の松嶽山鷹郎なる人物が執筆した記事「朝鮮人参」が掲載されており、自家調整の薬湯として鶏参湯([[계삼탕2|계삼탕]])が紹介されている。
 
:1911年12月に刊行された『日本農業雑誌(第7巻第13号)』には、[[北朝鮮の料理|黄海北道開城市]]在住の松嶽山鷹郎なる人物が執筆した記事「朝鮮人参」が掲載されており、自家調整の薬湯として鶏参湯([[계삼탕2|계삼탕]])が紹介されている。
  
 
:その製法は「白蔘五匁を薄く切り雛の孵化後三月目位のものを矢張り鷄蔘附用と同じ方法で、水一升二合を適當と認むる缸に入れ先の鷄を缸の内に挿し込んで炭又は薪で三時間計り煮て一合五勺位にして之れを布切れで搾り一回に飲ましむる」とあり、前述されている「鷄蔘附」は、上記に「附子(トリカブトの根茎)」を加えたもので、「鷄蔘附」が主に「七、八十歳に至る老人用」として用いられるのに対し、「鷄蔘湯」は主に「五歳乃至十歳位の小児用」としている<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/1551542/1/24 『日本農業雑誌 7(13)』,日本農業社, 1911年(P29-30)] 、国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号25/46)、2024年8月16日閲覧</ref>。
 
:その製法は「白蔘五匁を薄く切り雛の孵化後三月目位のものを矢張り鷄蔘附用と同じ方法で、水一升二合を適當と認むる缸に入れ先の鷄を缸の内に挿し込んで炭又は薪で三時間計り煮て一合五勺位にして之れを布切れで搾り一回に飲ましむる」とあり、前述されている「鷄蔘附」は、上記に「附子(トリカブトの根茎)」を加えたもので、「鷄蔘附」が主に「七、八十歳に至る老人用」として用いられるのに対し、「鷄蔘湯」は主に「五歳乃至十歳位の小児用」としている<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/1551542/1/24 『日本農業雑誌 7(13)』,日本農業社, 1911年(P29-30)] 、国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号25/46)、2024年8月16日閲覧</ref>。
  
;『朝鮮風俗集』(1914年)
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:;『朝鮮風俗集』(1914年)
 
:1914年に刊行された書籍『朝鮮風俗集』(著・今村鞆)には「朝鮮の年中行事」という項目があり、三伏([[삼복]])の食習慣として薬湯の参鶏湯([[삼계탕2|삼계탕]])を以下のように紹介している。「夏の三箇月間、毎日蔘鷄湯卽人蔘を雌鷄の腹に入れて煮出したる液を一椀宛飲用すれば、一年中如何なる疾病にも冒されずと稱し、富者は之を飲用する者がある」<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/1848683/1/133 今村鞆『朝鮮風俗集』,斯道館, 1914年(P236)] 、国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号133/268)、2024年8月16日閲覧</ref>。
 
:1914年に刊行された書籍『朝鮮風俗集』(著・今村鞆)には「朝鮮の年中行事」という項目があり、三伏([[삼복]])の食習慣として薬湯の参鶏湯([[삼계탕2|삼계탕]])を以下のように紹介している。「夏の三箇月間、毎日蔘鷄湯卽人蔘を雌鷄の腹に入れて煮出したる液を一椀宛飲用すれば、一年中如何なる疾病にも冒されずと稱し、富者は之を飲用する者がある」<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/1848683/1/133 今村鞆『朝鮮風俗集』,斯道館, 1914年(P236)] 、国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号133/268)、2024年8月16日閲覧</ref>。
  
;『朝鮮7月号 (第170号)』(1929年)
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:;『朝鮮7月号 (第170号)』(1929年)
 
:1929年7月に刊行された雑誌『朝鮮7月号 (第170号)』には、呉晴(オ・チョン、오청)による連載記事「朝鮮の年中行事」の記事があり、三伏([[삼복]])の項目で鶏参湯([[계삼탕2|계삼탕]])を以下のように紹介している。「夏の間鷄蔘湯を多く飮用すれば、元氣が非常によくなり、且つ年中如何なる疾病にも罹らないとて、人々はこれを盛んに飮用する。鷄蔘湯とは、卽ち鷄の腹に人蔘と糯米一勺を入れて煮出した液であるが、富者はこれを殆ど毎日服用するのである」<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/3557565/1/54 『朝鮮7月号 (第170号)』,朝鮮総督府, 1929年(P96)] 、国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号54/79)、2024年8月16日閲覧</ref>。
 
:1929年7月に刊行された雑誌『朝鮮7月号 (第170号)』には、呉晴(オ・チョン、오청)による連載記事「朝鮮の年中行事」の記事があり、三伏([[삼복]])の項目で鶏参湯([[계삼탕2|계삼탕]])を以下のように紹介している。「夏の間鷄蔘湯を多く飮用すれば、元氣が非常によくなり、且つ年中如何なる疾病にも罹らないとて、人々はこれを盛んに飮用する。鷄蔘湯とは、卽ち鷄の腹に人蔘と糯米一勺を入れて煮出した液であるが、富者はこれを殆ど毎日服用するのである」<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/3557565/1/54 『朝鮮7月号 (第170号)』,朝鮮総督府, 1929年(P96)] 、国立国会図書館デジタルコレクション(コマ番号54/79)、2024年8月16日閲覧</ref>。
  
 
=== 類似料理の記録 ===
 
=== 類似料理の記録 ===
;タッペクスク(丸鶏の水煮/닭백숙)
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:;タッペクスク(丸鶏の水煮/닭백숙)
 
:[[タッペクスク(丸鶏の水煮/닭백숙)]]は、丸鶏を茹でて食べるという簡便な調理法であり、古くから食べられていたと考えられる。文献史料の一例として、1795年に朝鮮王朝第22代王の正祖(정조)が水原華城まで出かけたときの記録である『園幸乙卯整理儀軌([[원행을묘정리의궤]])』に、恵慶宮洪氏の食事として「陳鶏白熟([[진계백숙]])」が記載されている<ref>[https://jsg.aks.ac.kr/data/serviceFiles/pdf/K2-2897_002.pdf 【PDF】園幸乙卯整理儀軌(巻4饌品/粥水剌十一日、P327、1行目[132/200])] 、デジタル蔵書閣(韓国中央研究院)、2024年8月16日閲覧</ref>。陳鶏([[진계]])とは老鶏のことである。なお、同じ食膳に若鶏を蒸した「軟鶏蒸([[연계증]])」も並んでいる。
 
:[[タッペクスク(丸鶏の水煮/닭백숙)]]は、丸鶏を茹でて食べるという簡便な調理法であり、古くから食べられていたと考えられる。文献史料の一例として、1795年に朝鮮王朝第22代王の正祖(정조)が水原華城まで出かけたときの記録である『園幸乙卯整理儀軌([[원행을묘정리의궤]])』に、恵慶宮洪氏の食事として「陳鶏白熟([[진계백숙]])」が記載されている<ref>[https://jsg.aks.ac.kr/data/serviceFiles/pdf/K2-2897_002.pdf 【PDF】園幸乙卯整理儀軌(巻4饌品/粥水剌十一日、P327、1行目[132/200])] 、デジタル蔵書閣(韓国中央研究院)、2024年8月16日閲覧</ref>。陳鶏([[진계]])とは老鶏のことである。なお、同じ食膳に若鶏を蒸した「軟鶏蒸([[연계증]])」も並んでいる。
  
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:サムゲタンを提供する外食店の登場は、1950年代半ば以降とする情報が多い(具体的な史料は未確認)。1950~60年代の新聞記事を読む限り、この時代はまだスープを飲むことに重きが置かれている印象が強いものの、1968年に書かれた記事には、煮込んだ鶏を「そのまま塩、コショウで味を調えて食べてもよく、または搾ってスープを飲む」(下記参照)と両者を併記したような記述が出てくる。あくまでも推測ではあるが、1960年代は養鶏産業が拡大した時期でもあり、サムゲタンの外食メニュー化が進んだことも重なって、富裕層向けの薬湯から一品料理への転換が進んだのではないかと考えられる。
 
:サムゲタンを提供する外食店の登場は、1950年代半ば以降とする情報が多い(具体的な史料は未確認)。1950~60年代の新聞記事を読む限り、この時代はまだスープを飲むことに重きが置かれている印象が強いものの、1968年に書かれた記事には、煮込んだ鶏を「そのまま塩、コショウで味を調えて食べてもよく、または搾ってスープを飲む」(下記参照)と両者を併記したような記述が出てくる。あくまでも推測ではあるが、1960年代は養鶏産業が拡大した時期でもあり、サムゲタンの外食メニュー化が進んだことも重なって、富裕層向けの薬湯から一品料理への転換が進んだのではないかと考えられる。
  
;『東亜日報』(1968年)の記述
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:;『東亜日報』(1968年)の記述
 
:1968年7月25日の『東亜日報』紙面には、韓国食文化研究の大家として知られる尹瑞石教授が寄稿した「夏の料理」に関する記事があり、鶏参湯([[계삼탕2|계삼탕]])について、「ひな鶏(黄鶏がもっともよい)に高麗人参、もち米、むき栗などを加えてじっくり煮込み、そのまま塩、コショウで味を調えて食べてもよく、または搾ってスープを飲む」<ref>[https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1968072500209206006 여름料理(요리)] 、NAVERニュースライブラリー、2024年8月17日閲覧</ref>と紹介している。
 
:1968年7月25日の『東亜日報』紙面には、韓国食文化研究の大家として知られる尹瑞石教授が寄稿した「夏の料理」に関する記事があり、鶏参湯([[계삼탕2|계삼탕]])について、「ひな鶏(黄鶏がもっともよい)に高麗人参、もち米、むき栗などを加えてじっくり煮込み、そのまま塩、コショウで味を調えて食べてもよく、または搾ってスープを飲む」<ref>[https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1968072500209206006 여름料理(요리)] 、NAVERニュースライブラリー、2024年8月17日閲覧</ref>と紹介している。
  
;「高麗参鶏湯」の開業
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:;「高麗参鶏湯」の開業
 
:[[ソウル市の料理|ソウル市]]の中区西小門洞(チュング ソソムンドン、중구 서소문동)に本店を構える「高麗参鶏湯(고려삼계탕)」は、現存するもっとも古いサムゲタンの専門店として知られる。1960年に明洞で創業ののち、1978年に現在の場所へと移転した<ref>[https://www.krsamgyetang.com/main/?skin=sub_01_01.html 고려삼계탕/브랜드 소개] 、高麗参鶏湯公式ウェブサイト、2024年8月16日閲覧</ref>。
 
:[[ソウル市の料理|ソウル市]]の中区西小門洞(チュング ソソムンドン、중구 서소문동)に本店を構える「高麗参鶏湯(고려삼계탕)」は、現存するもっとも古いサムゲタンの専門店として知られる。1960年に明洞で創業ののち、1978年に現在の場所へと移転した<ref>[https://www.krsamgyetang.com/main/?skin=sub_01_01.html 고려삼계탕/브랜드 소개] 、高麗参鶏湯公式ウェブサイト、2024年8月16日閲覧</ref>。
  
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