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チャジャンミョン(짜장면)は、韓国式ジャージャー麺。漢字では「炸醤麺」と書き、チャジャン(炸醤、짜장)は炒め味噌、ミョン(麺、면)は麺を意味する。韓国語では「자장면」とも表記する。豚肉、タマネギなどを、チュンジャン(春醤、춘장)という黒味噌とともに炒め、水溶き片栗粉でとろみをつけてチャジャンを作る。これを中華麺にかけて提供し、食べる際は麺とチャジャンがよくからむように、箸で全体をよくかき混ぜて味わう。19世紀後半に中国の山東省から伝わったとされ、韓国ではチャンポン(激辛スープの海鮮麺/짬뽕)と並んで中華料理の代表格として人気が高い。主に中華料理店で食べられるほか、粉食店やフードコートでも提供される。インスタント麺としてもチャジャンミョンは多くの商品が販売されている。チャジャンミョンのバリエーションとしては、カンチャジャン(とろみ抜きジャージャー麺/간짜장)や、サムソンチャジャンミョン(3種の海鮮ジャージャー麺、삼선짜장면)、ユニチャジャンミョン(豚ひき肉ジャージャー麺、유니짜장면)、ユスルチャジャンミョン(豚細切り肉ジャージャー麺、유슬짜장면)などがある。また、チャジャンを麺ではなくごはんにかけたものはチャジャンパプ(ジャージャーごはん/짜장밥)と呼ぶ。
歴史
1883年に仁川市で仁川港(インチョンハン、인천항)が開かれると、中国の山東省などから大勢の中国人が渡ってきた。彼らの伝えた代表的な中華料理のひとつがチャジャンミョンであり、当初は同胞向けに作って食べたものが、徐々に韓国でもローカライズして浸透した。当時の代表的な中華料理店としては1908年頃に創業した「共和春(공화춘)」があり、1983年に閉店したが、その跡地は現在「チャジャンミョン博物館(짜장면박물관)」として歴史を伝えている。
1920~30年代
チャジャンミョンに関する記録は、1920~30年代の新聞、雑誌記事に見られ、当時から大衆的な中華料理として根付いていたと推測される。ただし、ウドン(中華風の五目麺、우동)や、タンスユク(酢豚/탕수육)、チャプチェ(春雨炒め/잡채)、ヤンジャンピ(板春雨の冷菜、양장피)といった他の中華料理に比べると登場の頻度は少なく、現在のように国民食として親しまれるのは1950年代以降と見られる。
- 『朝鮮日報』(1923年)の記述
- 1923年1月23日発行の紙面に「物産奨励会に与する」という見出しの記事があり、文中に漢字で「炸醤麺」との記述がある。朝鮮物産奨励会の発足を伝える内容で、自国内で生産される物産が少なく、外国から入ってきたものが多いことの例として、裕福な人は洋食を食べ、庶民とてそれが日常食のすべてではないものの、「チャジャンミョンや、ヤンジャンピ(中華風冷菜)を食べ、貧しい者でもできたてのマンドゥ(餃子)や固いローピン(小麦粉のお焼き)などを食べる」としている[1]。
- 『東亜日報』(1930年)の記述
- 1930年9月6日発行の紙面に「欧州行(五)インド洋を越えて立ち」という旅行記があり、文中に漢字で「炸醤麺」との記述がある。イタリアで食べた「マカロニ(パスタ?)」の中には中国の麺を彷彿させるものもあるとしたうえで、ケチャップ味のものを「燕京食堂で食べた炸醤麺と、なぜこんなにも似ているのでしょう」と描写している[2]。
- 『別乾坤』(1934年)の記述
- 1934年1月1日発行の雑誌『別乾坤 第69号』に、「ユーモア オーケストラ、漫談」との記事があり、文中にチャジャンミョンの記述がある。大ボラを吹くような話として、登場人物のひとりがビルのような厨房に世界中のシェフを集め、「インド式の冷麺や、ブラジル式のニシン焼き、満州国式のチャジャンミョンでもなんでも好きなものを食べろ」と語るセリフがある[3]。
- 『朝鮮日報』(1935年)の記述
- 1935年2月23日発行の紙面に「汽車(一)」との紀行文があり、知人を訪ねて忠清南道礼山郡の挿橋駅で降り、「なんとか楼と書かれた中国料理店に入って所謂『チャジャンミョン』というものを食べ」たとの記述がある[4]。
- 『東亜日報』(1936年)の記述
- 1930年2月16日発行の紙面に「第三回全朝鮮男女専門学校卒業生大懇親会後期」との特集記事があり、その中に「大会余禄 印象の点描」としてチャジャンミョンの記述がある。卒業生への祝辞として、「(先生方は)ウドン、チャジャンミョンを食べ、冷めた弁当を食べてあなたたちを教えた」との一節があったことを紹介している[5]。
- 『朝鮮日報』(1938年)の記述
- 1938年11月9日発行の紙面に「秋収記(三)衣・食」とのエッセイがあり、田舎に行くとろくな食べ物がないとの文脈から、「(村の中心部でも)せいぜい『チャジャンミョン』か『チャンクッパプ(クッパ)』だが、これも名前は同じでもソウルとは比較にならない」との記述がある[6]。
- 共和春
- 共和春(コンファチュン、공화춘)は、中国・山東省出身の于希光(ウ・ヒグァン、우희광)氏によって開かれた中華料理店。創業年代は1905年と1908年の両説があり(チャジャンミョン博物館では1908年と説明している[7])、当時は「山東会館(산동회관)」という名称の宿泊施設を兼ねた飲食店であった。店名を「共和春」としたのは辛亥革命によって中華民国が誕生した1912年で「共和国の春」という意味が込められている。韓国における中華料理店の草分けとして長らく愛されてきたが、1983年に閉店。同店の建物は2006年4月に登録文化財第246号として指定されたのち[8]、2012年4月に「チャジャンミョン博物館(짜장면박물관)」として利用されるに至った。なお、現在のチャイナタウンには「共和春」の後継とされる店がふたつある。ひとつは2004年2月に開店した同名の「共和春」で、かつて「共和春」で料理長を務めていた人物を株式会社共和春フランチャイズの代表イ・ヒョンデ(이현대)氏が招聘し新たに始めたものである[9][10]。もうひとつは于希光氏の娘であるウ・ランヨン(우란영)氏と結婚したワン・イビョン(왕입영)氏が、「共和春」での修行を経て1980年に開店した「新勝飯店(신승반점)」である[11]。現在「新勝飯店」の代表はワン・イビョン、ウ・ランヨン夫婦の娘であり、また于希光の孫に当たるワン・エジュ(왕애주)氏が受け継いでおり、店名は異なるもののこちらを直系の後継店と考える人も多い。
エピソード
ブラックデー
ブラックデー(블랙데이)は、チャジャンミョンを食べるイベントデー。2月14日のバレンタインデー(밸런타인데이)、3月14日のホワイトデー(화이트데이)に縁のなかった人たちが集まり、全身を黒い服装で包み、嫉妬交じりのどす黒い気持ちを共有しながら、真っ黒い食べ物であるチャジャンミョンを味わう黒尽くしの1日を指す。凝る人であればアクセサリーなども黒で統一し、食後にはブラックコーヒーを飲む。単にチャジャンミョンを食べるだけでなく、合コンを兼ねることでカップルが誕生することもある。ブラックデーに付き合い始めたカップルは1ヶ月後の5月14日にローズデー(로즈데이)を迎えてバラを贈り合うなどの習慣もあるが、ブラックデーにチャジャンミョンを食べる友人さえいなかった人は、5月14日のイエローデー(옐로우데이)に黄色い服を着てカレライス(カレーライス/카레라이스)を食べなければならない。
ブラックデーの由来
- 『京郷新聞』(1993年3月15日)の記述
- 1993年3月15日付けの京郷新聞には「"私を困らせたらひどい目に遭う" 『ブラックデー』まで登場("나 속썩이면 엿먹는다"「블랙데이」까지 등장)」という記事があり、百貨店などにおけるホワイトデーの盛り上がりを取り上げたうえで、「今年は『ブラックデー』というまた違った正体不明の記念日が新しく作られ漸入佳境である(올해는 「블랙데이」라는 또다른 정체불명의 기념일이 새롭게 만들어져 점입가경이다)」と伝えている[12]。この記事によればブラックデーとは、「普段、自身を困らせている人に"飴を食べろ(俗語で「クソくらえ」「ひどい目に遭え」という意味を指す)"という意味で飴をプレゼントするもの(평소 자신의 속을 썩였던 사람에게 "엿먹어라"는 뜻으로 엿을 선물한다는 것)」であり、また「ホワイトデーをもとに日付も1ヶ月後の同じ日である4月14日と定めたブラックデーは、その名前が示すように、青少年たちにとっては『恐喝性』の愛情表現として受け入れられている(화이트데이를 본떠 날짜도 한달뒤 같은 날인 4월14일로 잡혀있는 블랙데이는 그 이름이 보여주듯 청소년들에게는 「공갈성」 애정표현으로 받아들여지고 있다)」と説明されている。この記事から判断するに、日付は当初から4月14日であったものの、その内容は現在と大きく異なるものであった[12]。
- 『東亜日報』(1996年2月10日)の記述
- 現在のようにチャジャンミョンを食べる日としてのブラックデーは、1996年2月10日付けの東亜日報に見える。同記事では「最近は『ブラックデー』まで登場した。4月14日のブラックデーはバレンタインデーやホワイトデーに何ももらえなかった『ハズレ男』と『ハズレ女』たちが黒い服を着て、食事も真っ黒いチャジャンミョンを食べ、ブラックコーヒーだけを飲む日だということで名付けられた名称(최근에는 「블랙데이」까지 등장했다. 4월14일인 블랙데이는 밸런타인데이나 화이트데이에 아무것도 못받은 「꽝맨」과 「꽝우먼」들이 검은 옷으로만 차려입고 식사도 시커먼 자장면을 먹고 블랙커피만 마시는 날이라고 해서 붙여진 명칭)」[13]としている。両記事における2種類のブラックデーに直接の関連性があるかはこれだけで判断できないものの、時代的な変遷から考えると、ホワイトデーに飴を贈る習慣が1990年代前半に「飴を食べろ」という俗語と結びつき、反語としてブラックデーという用語が生まれたところへ、1990年代半ばになってブラックという色からの連想で黒い料理、すなわちチャジャンミョンを食べる日としてさらに転じた可能性は推測できる。
- 『京郷新聞』(1997年3月17)の記述
- 毎月14日にいろいろなイベントデーを行う文化もこの時期から始まったと見られ、5月14日にカレーライスを食べるイエローデーの記事も1997年には複数見える。1997年3月17日付けの京郷新聞には「新世代たち'愛の14日'熱病(신세대들 '사랑의 14일'열병)」という記事があり、バレンタインデーから始まる「恋人の日」と「相手のいないソロの日」を分類し、「5月14日の『イエローデー』はまだ相手を探せていない人たちが集まってカレーライスを食べる日(5월14일「옐로데이」에는 아직도 짝을 못찾은 사람들이 모여 카레라이스를 먹는 날)」と紹介している[14]。
脚注
- ↑ 물산장려회(物產奬勵會)에 여(與)하노라 、朝鮮ニュースライブラリー100、2022年2月19日閲覧
- ↑ 欧州行(五)印度洋건너서서 、NAVERニュースライブラリー、2022年2月19日閲覧
- ↑ 별건곤 제69호 > 유모어 오케스트라, 漫談 、韓国史データベース、2022年2月19日閲覧
- ↑ 汽車(一) 、NAVERニュースライブラリー、2022年2月19日閲覧
- ↑ 大会余禄 印象의点描 、NAVERニュースライブラリー、2022年2月19日閲覧
- ↑ 秋収記(三)衣・食 、NAVERニュースライブラリー、2022年2月19日閲覧
- ↑ 역사적배경 、チャジャンミョン博物館ウェブサイト、2019年5月2日閲覧
- ↑ 등록문화재 제246호 인천 선린동 공화춘(共和春) 、文化財庁国家文化遺産ポータル、2019年5月2日閲覧
- ↑ 대표인사말 、共和春ウェブサイト、2019年5月2日閲覧
- ↑ 짜장면의 원조 공화춘, 그 잊혀진 맛을 되살리다 공화춘 이현대 대표 、月刊パワーコリア(2017年2月15日記事)、2019年5月2日閲覧
- ↑ [주간한국 [이야기가 있는 맛집(289)] ‘신승반점’ 왕애주 대표] 、デイリー韓国(2017年8月19日記事)、2019年5月2日閲覧
- ↑ 12.0 12.1 "나 속썩이면 엿먹는다"「블랙데이」까지 등장 、NAVERニュースライブラリー、2020年3月14日閲覧
- ↑ "美國(미국)선 밸런타인데이 조용히 지내요" 한국과 달리 남성이 여성에게 꽃-초콜릿 선물 、NAVERニュースライブラリー、2020年3月14日閲覧
- ↑ 신세대들'사랑의 14일'열병 、NAVERニュースライブラリー、2020年3月14日閲覧
外部リンク
- 制作者関連サイト
- 韓食生活(韓食ペディアの執筆者である八田靖史の公式サイト)
- 八田靖史プロフィール(八田靖史のプロフィール)
- 韓国語食の大辞典アプリ版(八田靖史制作の韓国料理専門辞典)