30,747
回編集
68行目: | 68行目: | ||
:羅州梨の歴史を紐解くと、原三国時代からの歴史があると語られることが多い。これは『三国志』「魏書第30巻 烏丸鮮卑東夷伝」の馬韓に関する記述に「出大栗大如梨(梨のような大きさの栗がある)」<ref>[https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B730?uselang=ja 三國志/卷30] 、維基文庫(中国語版ウィキソース)、2024年11月16日閲覧</ref>とあるのを根拠として、間接的に梨もあっただろうと推測するものである。 | :羅州梨の歴史を紐解くと、原三国時代からの歴史があると語られることが多い。これは『三国志』「魏書第30巻 烏丸鮮卑東夷伝」の馬韓に関する記述に「出大栗大如梨(梨のような大きさの栗がある)」<ref>[https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B730?uselang=ja 三國志/卷30] 、維基文庫(中国語版ウィキソース)、2024年11月16日閲覧</ref>とあるのを根拠として、間接的に梨もあっただろうと推測するものである。 | ||
− | :より具体的な記録としては、朝鮮時代の1454年に編纂された『世宗実録地理志(세종실록지리지)』に、当時の羅州牧(나주목)から中央に献上された物品として梨が含まれている<ref>[https://sillok.history.go.kr/id/kda_40007002 세종실록 151권, 지리지 전라도 나주목] 、朝鮮王朝実録ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>。ほかにも、1871年編纂の『湖南邑誌(호남읍지)』(第1巻 羅州)には「進貢」の項目に「生梨」との記述があり<ref>[https://kyujanggak.snu.ac.kr/kyuview/orgviewer.jsp?tid=geo&uci=GK12175_00IH_0001&page=40 호남읍지(湖南邑誌) / 1책(40면/286)] 、奎章閣韓国学研究院ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>、1897年編纂の『錦城邑誌(금성읍지)』にも「進貢」の項目に「生梨」があることから<ref>[http://kostma.korea.ac.kr/viewer/viewerDes?uci=RIKS+CRMA+KSM-WV.1897.0000-20150331.NS_0308 금성읍지(錦城邑誌) / 제1책(17/83)] 、高麗大学校海外韓国学資料センター、2024年11月17日閲覧</ref> | + | :より具体的な記録としては、朝鮮時代の1454年に編纂された『世宗実録地理志(세종실록지리지)』に、当時の羅州牧(나주목)から中央に献上された物品として梨が含まれている<ref>[https://sillok.history.go.kr/id/kda_40007002 세종실록 151권, 지리지 전라도 나주목] 、朝鮮王朝実録ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>。ほかにも、1871年編纂の『湖南邑誌(호남읍지)』(第1巻 羅州)には「進貢」の項目に「生梨」との記述があり<ref>[https://kyujanggak.snu.ac.kr/kyuview/orgviewer.jsp?tid=geo&uci=GK12175_00IH_0001&page=40 호남읍지(湖南邑誌) / 1책(40면/286)] 、奎章閣韓国学研究院ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>、1897年編纂の『錦城邑誌(금성읍지)』にも「進貢」の項目に「生梨」があることから<ref>[http://kostma.korea.ac.kr/viewer/viewerDes?uci=RIKS+CRMA+KSM-WV.1897.0000-20150331.NS_0308 금성읍지(錦城邑誌) / 제1책(17/83)] 、高麗大学校海外韓国学資料センター、2024年11月17日閲覧</ref>、羅州梨は宮中御用達の品であったとしてブランドイメージに一役買っている。『錦城邑誌(금성읍지)』には「物産」の項目にも「居平梨」との記述があり、居平県=現在の羅州市文平面(ムンピョンミョン、문평면)が名産地であったとわかる<ref>[http://kostma.korea.ac.kr/viewer/viewerDes?uci=RIKS+CRMA+KSM-WV.1897.0000-20150331.NS_0308 금성읍지(錦城邑誌) / 제1책(19/83)] 、高麗大学校海外韓国学資料センター、2024年11月17日閲覧</ref>。 |
:20世紀に入ると、日本人によって晩三吉、今村秋、長十郎などの日本産品種が多く持ち込まれた。1904年に羅州市へ渡った長崎県出身の松藤傳六が、1910年(1906年など諸説ある)に果樹園を開いたことをきっかけとして、大規模な栽培が広まったとされる<ref>[https://www.naju.go.kr/www/introduction/products/naju_pear 나주배의 재배연혁] 、羅州市ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>。1929年9月に京城府(現、[[ソウル市の料理|ソウル市]])で開かれた朝鮮博覧会では、当時の羅州郡から早生梨を出品した李棟奎(イ・ドンギュ、이동규)氏が銅牌を受賞している<ref>[https://blog.naver.com/bukgu/221579596323 나주배박물관 소장, 조선박람회 상장의 가치는?] 、園芸学者ホ・ボック(허복구)氏のブログ、2024年11月17日閲覧</ref>。 | :20世紀に入ると、日本人によって晩三吉、今村秋、長十郎などの日本産品種が多く持ち込まれた。1904年に羅州市へ渡った長崎県出身の松藤傳六が、1910年(1906年など諸説ある)に果樹園を開いたことをきっかけとして、大規模な栽培が広まったとされる<ref>[https://www.naju.go.kr/www/introduction/products/naju_pear 나주배의 재배연혁] 、羅州市ウェブサイト、2024年11月17日閲覧</ref>。1929年9月に京城府(現、[[ソウル市の料理|ソウル市]])で開かれた朝鮮博覧会では、当時の羅州郡から早生梨を出品した李棟奎(イ・ドンギュ、이동규)氏が銅牌を受賞している<ref>[https://blog.naver.com/bukgu/221579596323 나주배박물관 소장, 조선박람회 상장의 가치는?] 、園芸学者ホ・ボック(허복구)氏のブログ、2024年11月17日閲覧</ref>。 |