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:1938年11月9日発行の紙面に「秋収記(三)衣・食」とのエッセイがあり、田舎に行くとろくな食べ物がないとの文脈から、「(村の中心部でも)せいぜい『チャジャンミョン』か『チャンクッパプ(クッパ)』だが、これも名前は同じでもソウルとは比較にならない」との記述がある<ref>[https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1938110900239205015&editNo=1&printCount=1&publishDate=1938-11-09&officeId=00023&pageNo=5&printNo=6287&publishType=00020 秋収記(三)衣・食] 、NAVERニュースライブラリー、2022年2月19日閲覧</ref>。 | :1938年11月9日発行の紙面に「秋収記(三)衣・食」とのエッセイがあり、田舎に行くとろくな食べ物がないとの文脈から、「(村の中心部でも)せいぜい『チャジャンミョン』か『チャンクッパプ(クッパ)』だが、これも名前は同じでもソウルとは比較にならない」との記述がある<ref>[https://newslibrary.naver.com/viewer/index.naver?articleId=1938110900239205015&editNo=1&printCount=1&publishDate=1938-11-09&officeId=00023&pageNo=5&printNo=6287&publishType=00020 秋収記(三)衣・食] 、NAVERニュースライブラリー、2022年2月19日閲覧</ref>。 | ||
− | === | + | === 1940~60年代 === |
+ | :1940~60年代にかけては、中国から伝わった外来の料理がローカライズし、韓国式のチャジャンミョンとして普及が進んでいった時代である。今日の韓国で国民食と呼ばれるに至る原点がこの時代にあるが、その大きな要因としては、以下のような理由があげられる。朝鮮戦争(1950~53年)後に、アメリカからの援助を受けて大量の小麦粉が流通し、パンや麺類が多く食卓にのぼるようになり、政府もまたこれを奨励したこと(混粉食奨励運動)<ref>周永河, 2021, 『食卓の上の韓国史』, 慶應義塾大学出版会, P349-351</ref><ref>양세욱, 2009, 『짜장면젼』, 프로네시스, 電子書籍版P135-148/270(54-55%)</ref>。1961年の「外国人土地法」施行によって、外国人の土地所有が厳しく制限され、それまで農業を営んでいた華僑らが都市部に出て飲食店を始めるケースが増えたこと<ref>周永河, 2021, 『食卓の上の韓国史』, 慶應義塾大学出版会, P344-346</ref>。政府による物価安定政策によってチャジャンミョンの価格が安価に抑えられてきたこと<ref>周永河, 2021, 『食卓の上の韓国史』, 慶應義塾大学出版会, P346-348</ref>、などがあげられる。 | ||
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1948年に「龍華醤油(용화장유)」(現、龍華食品株式会社)が、チュンジャン(春醤、춘장)を発売した([[チャジャンミョン(韓国式ジャージャー麺/짜장면)#チュンジャン(春醤)|概要>チュンジャン(春醤)]]参照)。 | 1948年に「龍華醤油(용화장유)」(現、龍華食品株式会社)が、チュンジャン(春醤、춘장)を発売した([[チャジャンミョン(韓国式ジャージャー麺/짜장면)#チュンジャン(春醤)|概要>チュンジャン(春醤)]]参照)。 | ||