コリアうめーや!!第215号

コリアうめーや!!第215号

<ごあいさつ>
2月15日になりました。
韓国では旧正月連休の真っ最中で、
ちょうど昨日が旧暦の1月1日でした。
せっかくなので挨拶もしておきましょうかね。
「セヘ ポン マニ パドゥセヨ!」
(新年の福をたくさんお受けください)
日本の感覚では1ヶ月半遅れの感覚ですが、
正月を2度味わえるというのもよい体験です。
改めまして今年も宜しくお願いします。
さて、そして今号のメルマガですが、
ちょっと難解なテーマになりました。
ある料理の歴史に切り込んだのですが、
うまく仕上がったのか、自分でも少し不安です。
個人的には大興奮と大発見なんですけどね。
話が大きすぎて、うまくまとまらなかった気も。
とりあえずは話半分くらいで読んでみてください。
コリアうめーや!!第215号。
鼻息ふんふんで、スタートです。

<韓国式チャンポンの謎に立ち向かう!!>

さて、困った。

冒頭からいきなり何事かという書き出しだが、
僕はいまとっても困っているのである。

困った、困った、本当に困った。

などという感じで大げさに困って見せると、
優しい読者諸氏のことであるから、

「八田くん、いったいどうしたの?」

と親身に心配してくれることであろう。
だが、その優しさがいっそう困るのである。
なおさら困っている理由を言い出しにくい。

実は今回のこのメルマガ……。

「結論が出ていない!」

というよりもむしろ……。

結論が「わからない」だったりする。
いつも通り4000字もダラダラと書き連ねておいて、
結果わからないでは、読むほうもびっくりである。

「ワタシの時間を返せ!」

と苦情が来るかもしれない。

なので、前もって皆様にお伝えしておく。
今号のメルマガは最後までビシッと結論が出ていない。
かなり中間報告的な内容で終わっている。

「だったら、結論が出てから書け!」

という批判は重々承知である。
どうか広い心で、ご容赦、ご理解を頂きたい。

とペコペコ頭を下げておいて。

僕個人のテンションは非常に高かったりする。

先日、本当に偶然ではあったのだが、
僕が長年抱えてきた疑問に、一筋の光明が見えた。
そしてそれはかなり答えに近いと思われた。

「うひょ、これはもう裏さえ取れば解決じゃん!」

と思ったのだが、その裏取りが難しかった。
むしろ調べれば調べるほど疑問が山積みになってしまい、
おそらく本当に結論が出るのはずいぶん先だろう。

でも、僕の興奮はいままさに待ったなしなのだ。

ならば中間報告でもいったん大勢の人に提示をして、
そのまま広く情報を募ってみるのはどうだろう。
そんなことを考えての内容なのである。

まず、僕が抱えてきた疑問であるが、
それはコリアうめーや!!第62号に書かれている。

コリアうめーや!!第62号
http://www.koparis.com/~hatta/koriume/koriume62.htm

今号のタイトルにもあるが懸案の料理はチャンポンだ。
韓国式中華料理のひとつで、粉唐辛子のたっぷり入った海鮮麺。
長崎チャンポンを真っ赤にしたような料理である。

この料理は韓国でも多くの謎を含んだ料理とされており、
その来歴は、文献や辞典類を見ても明らかにされていない。

一応、定説らしきものを並べてみると……。

・チャンポンは中華料理のひとつである
・19世紀末に長崎で作られたものが伝来した
・チャンポンという用語も日本語である
・正しくは炒碼麺(チョマミョン)と呼ぶ
・粉唐辛子を入れる作り方は韓国で発達した

といったあたりが散見できる。

これに対して、第62号を配信した当時の僕は、
大きく分けて2つの疑問を書き残している。

=========================
少なくとも日本では白いチャンポンが、
なぜ韓国に渡って真っ赤になってしまったのか。
そしてなぜ名前はそのまま残っているのか。
=========================

第62号を配信したのが2003年10月。
僕はときおり思い出したかのように、この問題と対峙し、
調査を進めていたが、明確な答えは出なかった。

それがつい先週。

実に6年4ヶ月を経て、大きな進展を迎えた。
東京、新大久保の韓国式中華料理店で取材をしていたところ、
この道36年という料理長がチャンポンの近代史を語ってくれた。
それはすなわち料理長の自分史でもあった。

「俺が修行を始めた頃は白いチャンポンもあったよ」
「まじっすか!?」

曰く、韓国のチャンポンが赤くなり始めたのは70年代初頭。
それまでは韓国のチャンポンも白濁スープであった。

ちょうど料理長が新人の頃かその少し手前。
料理長は当時の思い出を、時代背景とともに、
自信の体験として僕に語ってくれた。

僕にとってそれは、目からウロコの情報であった。

と、ここまで書いて少し脱線する。

じらす訳ではないが、せっかくの機会なので、
チャンポンの歴史から順序立てて話を進めたい。

まず、日本におけるチャンポンの歴史であるが、
1899年(明治32年)に長崎で生まれたというのが定説である。
長崎市内の中華料理店「四海楼」の初代店主、陳平順氏が、
清国からの留学生に安くて栄養価の高い料理を作って提供した。

その当時は「支那饂飩」という名称もあったようだが、
これが後にチャンポンとなって、九州をはじめ各地に広まった。
その過程で、朝鮮半島にも伝来したと考えられている。

一方、韓国における中華料理の歴史も19世紀後半に始まる。

日朝修好条規によって1883年に仁川港が開港すると、
距離的に近い山東省の人たちが多く移り住んだ。
裕福な人は貿易を行い、経済的に豊かでない人は農業を営んだ。
こうした人たちを対象に中華料理店も少しずつ生まれてゆく。

この時代に伝わった代表的な山東省料理のひとつが、
今日、韓国式中華の顔役であるチャジャンミョン(炸醤麺)だ。

開港以来、さまざまな形で飲食店はあったと推測されるが、
記録上、最古の中華料理店は1905年開店の「共和春」とされる。
創業当時は「山東会館」という名前で営業を始めていた。

韓国ではこの店の創業年であるチャジャンミョン元年とし、
2005年には100周年記念の行事も行っている。
だが、創業時からメニューにチャジャンミョンがあった保証はなく、
確認できる最古の記録は、1934年まで待たねばならない。

一方で1922年の東亜日報には、天安郡(現、天安市)の、
中華料理店で麺料理を食べた客がぼったくられたとの記事がある。
中国ククス(麺)という表記なので、どんな麺料理だったは不明だが、
少なくともこの時期、全国各地に中華料理店は浸透していたようだ。

すると残る問題はチャンポンがどの時期に伝わったかだが、
仁川港の開港直後から、人々の往来はどんどん始まっている。
特に長崎は海運の要所であることから朝鮮航路も開設されており、
日本郵船、大阪商船などが長崎と仁川を結んでいた。

確たる証拠はないが、

「長崎で食べたチャンポンって美味しかったよ!」

と伝えた人がいたに違いない。

日本人なのか、中国人、韓国人なのかはわからない。
それが仁川に初めて伝わったのかも確証がない。
また、そのとき料理そのものが伝わったのか、
あるいは名称だけが伝わったのかも疑問として残る。

現在の韓国式中華料理店では太滷麺をウドンと呼ぶが、
これもいわゆる日本式のウドンとはまったく別の料理である。
日本統治時代に中華料理店を訪れた日本人が、

「おお、これは中国式のウドンだな!」

と呼んだことから定着したのであろう。
同じことがチャンポンにも起こっていれば、
何か似た料理がチャンポンと誤解されたのかもしれない。

その経緯はまだまだ謎に包まれているが、
少なくともチャンポンが伝わったのは明治時代後期以降。
日本統治期にかけて普及していったと推測される。
ただしその当時はまだ、高級料理としての扱いであった。

その後、時代が経過し徐々に大衆的な料理へと変わってゆく。
チャンポンが赤くなってゆくのはこのあたりからだ。

前述した料理長の話は、以下のような内容であった。

「俺が修行を始めた頃は白いチャンポンもあったよ」
「えーと、72年……。いや73年頃だったかなぁ」
「中国人オーナーがみんな国に帰ったんだよね」
「そんで、ほとんどの中華料理店が韓国人経営になった」

「中国人がやってた頃は丁寧に豚骨スープを取ってたけど……」
「韓国人になったら面倒がって鶏ガラにかわったんだよね」
「若い頃は豚骨スープをとった後、骨についた肉をはがしてさ」
「厨房で焼酎を飲むのが楽しみだったんだよね」

「唐辛子を入れるようになったのは確かその頃からだね」
「ちょうど唐辛子の値段が上がった時期があってさ」
「客が卓上の唐辛子をどんどん入れるから、主人がそれを嫌がってね」
「最初から入れて出すことにして、その後はずっと赤いチャンポン」

僕はその話を聞いて雷を受けた思いだった。

この一連の話には、いくつかの重要なポイントがある。
スープが赤くなった経緯に、まず唐辛子価格の高騰があったようだ。
調べてみると、それは70年代から80年代にかけて幾度か起こり、
韓国語では「コチュパドン(唐辛子波動)」と呼ばれている。

唐辛子の値段が高いので、キムチを満足に作れず、
街中の食堂では、かわりにタクアンが出されたそうだ。
粉唐辛子におがくずを混ぜ込んだ偽物商品も流通したらしい。

そんな時代に唐辛子を卓上に出しておくのはもってのほか。
たくさん使われるのを防ぐために、先に適量入れておくというのは、
サービス面はともかく、商売としては納得のゆく説明である。

そして、その背景には中華料理店のオーナーチェンジがある。

当時の朴正煕政権は在韓華僑に対し弾圧的な政策を取り、
土地所有の制限や、商行為に対する規制を強めた。

ほとんど飲食店経営しか道がないような状況だったが、
その中華料理店にも、さまざまな規制がかけられてゆく。
1973年には米飯の販売禁止令も通達されたが、
韓国、日本、西洋料理を除き、中華料理店だけが対象となった。

在韓華僑らの反発によって3ヶ月で撤回されはしたが、
この時期から中華料理店のメニューは麺料理が中心となる。
チャジャンミョン、チャンポンが看板料理となったが、
そのチャジャンミョンは価格統制を受けて値上げが禁じられた。

安価で食べられるチャジャンミョンは国民食に成長したが、
その一方で、中華料理店の経営はいっそう厳しくなった。
韓国の地を離れ、海外脱出の道を選ぶ人も少なくなかったという。

料理長が語ってくれた、

「ほとんどの中華料理店が韓国人経営になった」

というのはこの前後の時期であろう。
料理長の体験によると、豚骨スープは手がかかるので簡略化され、
卓上用の粉唐辛子も調理過程で加えるように変化した。

それが一過性のブームで終わらなかったのは、
おそらく韓国人の味覚にも合っていたからだと思われる。

豚骨スープに客が粉唐辛子をバサバサ入れていたあたり、
チャンポンを脂っこいと感じる人も多かったのだろう。
外食の頻度が増え、国民が豊かになっていく時期に、
より美味しい料理、口に合う料理を求めるのは自然なことだ。

そしてまた、ひとつ流行すると全員で乗っかるのが韓国人。

いつしか赤いチャンポンだけが中華料理店に残り、
もともとの白いチャンポンは歴史に埋もれていった。
その姿は、過去の記憶として語られるのみである。

以上が料理長の話を元にした考察である。

一応、なんとか話の筋は通っていると思うが、
本来であれば、ここに史料的な裏付けが欲しい。
在韓華僑の人口推移、唐辛子の生産高と価格の平均など。

また当時、働いていた人の証言ももっと得られるはずだ。
もしかすると、スープに粉唐辛子を入れることにした日を、
印象深く、覚えている人がどこかにいるかもしれない。

そしてまだまだわからないこともたくさんある。

チャンポンの伝来時期や、名称の伝播は謎のままである。
また粉唐辛子が卓上に置かれ始めた時期もあるはず。
薬味的な使用法を見ると、そばやうどんの影響もあるかもしれない。
釜山の隠れ名物、ワンタンも似たような食べ方をする。

また、粉唐辛子を入れたくなる理由も気にかかる。

豚骨スープの脂っぽさを軽減する理由はありそうだが、
肉や骨を煮込んだ白濁スープなら韓国にもたくさんある。
また油だけを考えるなら、チャジャンミョンも油の使用量は多い。

日本のラーメンをしつこいと嫌う韓国人も少なくないが、
チャンポンに粉唐辛子を入れる理由はそれと同様なのだろうか。
ならば、韓国人が苦手とする味はどのあたりにあるのか。

というあたりで、冒頭の言い訳に戻る。

それらの答えはわからない。

今回、料理長の話を聞いたことによって、
自分の中ではずいぶんと整理が進んだ。
だが、それは完璧ではないし、勘違いや誤解もあるだろう。
料理長の話とて、それは個人の体験に過ぎない。

ただ、話としてはすごく面白かった。

その興奮を伝えたかったので、不完全な状態で書いた。
そしてまた、わからないことをまとめたかった。

日本において韓国料理の情報はだいぶ増えたが、
まだまだわからない部分、疑問点がたくさん残っている。
日本の食文化とリンクしていく部分もあるだけに、
その疑問点はきちんと整理して共有したい。

韓国料理のわかっていることと、わからないこと。

これを各料理ごとにまとめたいとの気持ちがある。
どのような形で発表できるかはまだ未定だが、
今回のチャンポンはそのちょうどいいモデルケースだ。

韓国のチャンポンが抱えるいくつもの謎。

今後も、引き続いて追いかけてゆく所存である。
もし有効な情報をお手持ちの方がいたらぜひ教えて欲しい。

<お知らせ>
仕事が忙しくHPの更新ができません。
落ち着いたら、まとめて更新したいと思います。
http://www.koparis.com/~hatta/

<八田氏の独り言>
2月15日に第215号。
なかなかに神秘的な数字です。

コリアうめーや!!第215号
2010年2月15日
発行人 八田 靖史
hachimax@hotmail.com



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