韓国の南西部に位置する全羅南道。
その南部、南海岸に面した港町の康津(カンジン)は、新羅後期から高麗時代にかけて焼き物の産地として栄えた町です。地域を代表する料理がハンジョンシク(韓定食、한정식)ということからも、食の豊かさや、文化的な姿が伺えるのではないでしょうか。
そんな康津で写真館を営むお父さんのもと、7人兄弟の長女として生まれたのが尹永愛(ユン・ヨンエ)さん。冒頭の写真でチョッパル(豚足、족발)を切っている方です。年代は少しぼやかして、1950年代とだけ書いておきますか。幼少期を過ごした家は、日本統治時代に建てられた日本家屋だったそうです。
料理上手だったお母さんは光州(クァンジュ)の出身。全羅道はそもそも食の豊かな地域として知られますが、
「当時、定食店をしていた親戚もいたし、ククス(麺料理)の店をやっている親戚もいたね」
という話ですから、そもそも料理一家だったのかもしれません。
子どもの頃、好きだった料理を尋ねてみると、
「子どもの頃のご馳走といえばポリゲトク(麦餅、보리개떡)とか、誕生日に食べたミヨックッ(ワカメスープ、미역국)だね」
との答えが返ってきました。ミヨックッといえば尹永愛さんが誕生日を迎えた常連客にだけ作る特別な料理。そのルーツは幼少期の食事にあったんですね。こうして国民学校に入るまでを康津で過ごし、6~7歳の頃に隣町である海南(ヘナム)へと引っ越し。その後、中学校は光州で通ったそうです。
その後、尹永愛さんはソウルで就職。人形工場で少し働いたそうですが、ほとんど叔母さんの家で遊んでいたとも。むしろ花嫁修業をしていらしたんですかね。19歳のときに李錫祚(イ・ソクチョ)さんと結婚。ソウルの踏十里で新生活を始めます。ソウルでは10年ほど生活。この間に3人のお嬢さんが生まれました。
80年代の初めからは釜山(プサン)で生活。
ふたりの暮らしに転機が訪れたのは、韓国がアジア通貨危機の影響から経済的に苦しんだ90年代後半でした。日本で飲食店を営んでいた親戚から声がかかり、手伝って欲しいと言われたことをきっかけとして日本に移住。ちょうど子育てがひと段落していたのもいいタイミングだったようですね。
親戚が東京、新大久保でやっていた飲食店はカウンター席を中心にテーブル席がひとつ。ほとんどが韓国人客だったそうですが、尹永愛さんが厨房を預かるようになって日本人客がぐんと増えたと言います。
「家で作っていたものをそのまま店で出していたんだけどね。タットリタン(鶏肉と野菜の辛鍋、닭도리탕)だけは日本人の好みに合わせて汁気をちょっと増やしたのよ。これも昔はタッチム(닭찜)とか、タッポックム(닭볶음)とか呼んで子どもの頃に食べた料理だよ」
この料理もルーツは康津、海南にあったんですね。
やがて日本人の心をつかんだタットリタンは店の看板メニューへと成長。カウンター席をすべて座敷席に替えたのも功を奏して、いつしか大勢のファンがタットリタンを目当てにやってくるようになりました。
その後、2006年まで新大久保で営業を続けた後、惜しまれながら帰国。僕ら常連客は釜山まで会いに行ったりもしましたが、いつの間にやら「やっぱり日本がいいな」と2008年に浅草へと戻ってきます。その後、上野へ行ったり、相模原(矢部)に行ったりしながら、市ヶ谷に店を構えたのが2014年の夏。その市ヶ谷も昨日で閉店となりました。
上の写真はいちばん最後に提供されたスンドゥブチゲ(柔らかい豆腐の鍋、순두부찌개)。
おかげさまでたいへん美味しくいただきました。
長年の常連客としてはこうして最後を迎えるのにも慣れてきましたし、次はどこかなぁという思いもあるのですが、今回店を閉じるにあたってトゥッペギ(チゲ用の鍋)などの厨房用品を常連客にあげていたのが気にかかるところですね。
上の写真は僕が最後にもらったものですが、大量の白菜キムチと、大量の大根の酢漬けと、温めるだけで食べられるスンドゥブチゲのセットと、そしてタットリタン用に使っていた大鍋がふたつ(ただしフタはひとつ)。
まだ本格的に決まった訳ではありませんが、厨房用品を整理なさったところを見ると、今回はまた韓国に戻ることになるのかなぁという感じです。釜山に住むのか、あるいは康津との可能性もあるようですが、ともかくも決まったら連絡をいただき、僕が責任をもってインターネット上で公開するという約束になっています。
「さすがにもう年だからね」
とおっしゃっているので、ゆっくり隠居なさるのかもしれませんが、2年もしたら「飽きた」と言ってまた日本に戻ってくるんじゃないかなぁ、と思っているのは僕だけじゃないはず。どんな展開になるかはわかりませんが、常連のみなさまはいましばらくお待ちください。
2 Responses to オモニの食歴 ~全羅南道康津郡出身の尹永愛(ユン・ヨンエ)さん編