上の記事から続きます。
韓流編の後は、韓食編というころでまとめました。
2005年は新大久保にとって転機の年でした。
いえ、新大久保だけでなく、日本の韓国料理全般ですね。
韓流から1歩遅れ、食文化にも影響が波及してきた頃。
僕はそれを勝手に「食の韓流」と呼んでいました。
コリアうめーや!!第111号/日本に押し寄せる食の韓流!!
http://www.koparis.com/~hatta/koriume/koriume111.htm
韓国料理店が増え、チャングムの影響もあり、
少しずつ韓国料理への関心が高まってきた頃だと思います。
そういった状況を背景に、僕が韓食日記を書き始めたのも2005年。
ブログという形にしたのは、年末の押し詰まった頃でしたけどね。
ちなみに、ブログになる前の韓食日記はこんな感じ。
韓食日記(2005年)
http://www.koparis.com/~hatta/nikki.htm
そんな変革の時期に、もっとも活躍したのが冒頭の料理。
サムギョプサル(豚バラ肉の焼肉)の華々しい活躍こそが、
新大久保コリアンタウンの活況を導いたといえます。
冒頭の写真は巨大なすずり(硯)で焼くサムギョプサル。
韓国語ではチャムビョルサムギョプサルといいます。
いまも新大久保には個性的なサムギョプサルは多いですが、
群雄割拠の発端となったのが、この時期だったように思います。
コリアうめーや!!第103号/東京にて豚焼肉戦争勃発!!
http://www.koparis.com/~hatta/koriume/koriume103.htm
スコップに載せたサムギョプサルを炭釜で焼く、
3秒サムギョプサルが登場したのも、この頃でしたね。
「てじまぅる」は山形県平田牧場のブランド豚で勝負。
日本産の高級食材を使って韓国料理を作るという試みも、
この時期から急速に目立ってきた現象だったと思います。
そのほか、この時期を象徴する料理といえば、
韓国で大ブームとなったプルタク(激辛グリルチキン)があります。
新大久保のプルタクはずいぶん手加減した辛さでしたけどね。
渋谷に「ホンチョぶるだっく」が出来たのもこの年でした。
アメリカ発のスンドゥブチゲ(柔らかい豆腐の鍋)専門店、
「BCD TOFU HOUSE」も2005年11月のオープン。
今年になって閉店してしまったのが、なんとも残念ですね。
スンドゥブチゲは2006年になって、
・TBS系ドラマ『輪舞曲』劇中でチェ・ジウがスンドゥブチゲ店を経営
・そのロケ現場となったスンドゥブチゲ店が溝の口で実際にオープン
・時をほぼ同じくして「東京純豆腐」が青山に1号店をオープン
と瞬く間に話題を集める料理として成長しました。
コリアうめーや!!第124号/来たぞスンドゥブチゲ新時代!!
http://www.koparis.com/~hatta/koriume/koriume124.htm
マッコリも少しずつ銘柄が増え始めた頃です。
写真には、
・二東マッコルリ
・佛谷山ドンドン酒
・楊州黒豆マッコリ
・アリランの詩
という4種類の銘柄が見えますね。
また、この写真からは見えませんが、
・ソウル月梅マッコリ(缶)
・抱川一東マッコリ
の姿も別カットではありました。
西新宿で「マッコリバーてじまぅる新宿店」がオープンするのは、
2006年5月なので、その予兆がしっかり見えている感じです。
・サムギョプサル
・スンドゥブチゲ
・マッコリ
という現代韓国料理業界の人気コンテンツが、
いずれもこの時期から、気配を見せているのは興味深いところです。
その一方で、閉店してしまった店の写真もたくさん出てきました。
現「アサラン」の位置にあった「群山飯店」には、
チャジャンミョンが食べたくて、よく通ったものです。
職安通りの33cmソフトクリームもいつの間にか消えましたね。
いまのようにパッピンス(カキ氷)が充実してくる前は、
このソフトクリームが、韓国料理を食べた後のデザートでした。
餅カフェはいまならもっと流行っただろうに、とも思ったり。
いまでこそ新大久保はたくさんのカフェがしのぎを削っていますが、
しばらく前までは、本当にお茶をする場所にも困る町でした。
現「味ちゃん2号店」のところにあった「味一番」。
豚肉とスイカの煮込み、という妙なメニューがあると聞き、
みんなで駆けつけたところ、夏限定でいまは出来ないと断られました。
「ならば来年の夏に必ずやリベンジを!」
と意気込んだのですが、翌年の4月に無念の閉店。
いまもってどんな料理だったのか、まったく謎という、
悔いの残る思い出が、写真とともによみがえってきました。
そういえば、この頃は新大久保の様子も謎だらけで、
よくツアーを組んでは、いろいろな店に出かけましたね。
最近は忙しくなって、オフ会の主催もなかなかできませんが、
この当時はあれこれ企画を立てては、精力的に活動していました。
闇鍋みたいなプデチゲ(ソーセージ鍋)を作って、師団チゲを名乗ったり、
みんなで大量の料理を持ち寄って、韓定食を作ってみたり。
ひとりで山手線を1周歩いたこともありましたし、
また山手線を使ってひとりすごろくをしたこともありました。
まだ、ライターとして独立できず、フリーターとの兼業だった頃。
仕事がないぶん、ヒマだけは有り余るほどにありました。
自分にとってもいい時期だったのかな、としんみり思う2005年。
新大久保の写真とともに、ざざっと振り返ってみました。
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