コリアうめーや!!第296号
<ごあいさつ>
7月になりました。
いよいよ夏モードへの切り替えです。
300号での終了を宣言したこのメルマガも、
今号を入れてあと5回と残りはわずか。
終盤モードへの切り替えが必要になりそうです。
このメルマガにはいくつかの定番ネタがあり、
それを消化するのも終盤の重要な任務といえましょう。
まずは25号刻みで続けていたあの企画。
本来は300号で書くはずの予定でしたが、
それを少し早めてみることにします。
時計の針をキリキリと巻き直し、
少しノスタルジックに語らせて頂きます。
コリアうめーや!!第296号。
自分と重ね合わせる、スタートです。
<あの日あの時あの人と……12>
美味しいものを食べた思い出がある。
あの日あの時あの人と、一緒に食べた味わい深い思い出がある。
僕は寿司店のカウンターに座るやいなや、
目の前の大将に、
「ヒラメ」
と呟いた。
当時、僕が21歳の若造であったことを考えると、
かなりスカした注文であったに違いない。
頭にあったのは「美味しんぼ」の一場面だったが、
カウンター越しに、にらまれても仕方のない不作法だ。
それを快く見逃してくれたのは、家族揃って通っていた、
ごくごく近所の行き付け店だったからだろう。
ほどなく、僕の前にヒラメの握りが2カン置かれ、
父の注いでくれたビールとともに僕はそれを味わった。
父、母、祖母、妹、そして僕の5人がカウンターに並び、
寿司を食べるのは、我が家にとって最高の贅沢だった。
もっと前、僕が小学生の頃はさらに失礼の塊で、
「納豆巻き!」
だけをひたすら連呼するような子どもだった。
カウンターに座って注文するのが好きな割りに、
魚が苦手だったので、大将はいつも苦労していた。
カマボコを握り寿司に仕立ててくれたり、
カッパ巻きにカイワレや梅肉を足してみたり。
そんな大将の努力をまるで顧みず、
「お吸い物がいちばん美味しかった!」
と見当違いの褒め方をする子どもでもあった。
大学生になって、
「ヒラメ」
などと、スカした注文をしているのも、
むしろ大将には成長の証に見えたかもしれない。
一方、僕は漫画で得た知識を総動員。
「白身魚から始めて、次は青魚だな」
「確かコハダが店の技量をよく表すとかなんとか」
「よし、ヒラメの次はコハダでいこう」
さらにスカした考えに没頭していた。
隣では父が福島の地酒、奥の松をくいくい飲みつつ、
「アナゴを炙ってください」
と気の効いた注文をしている。
21歳の若造はそんな注文方法など露知らず、
「アナゴを……炙る!?」
「そ、そんなカスタマイズ注文もできるのか」
「ふむぅ、父もなかなかやるなぁ」
とひとり静かに感心していた。
いまからもう16年も前のことである。
我が家で飲むのは僕と父のふたりだけ。
母、祖母、妹の女性陣3名は早々に食事を終え、
僕らふたりを残して先に家へと戻った。
僕の現在を知る人であれば、
「八田くんて、本当にお酒よく飲むよね」
という姿をよくご存じのことだろう。
僕の酒好きは間違いなく父からの遺伝である。
酒造会社に勤めていた父は、ほぼ毎日のように、
自社の缶チューハイで晩酌をしていた。
それもレモンやグレープフルーツのサワーでなく、
シンプルなプレーンのチューハイを好んだ。
チューハイ以外の酒もよく飲み……。
「日本酒は〆張鶴!」
「カクテルはサイドカー!」
「焼酎は泡盛!」
といった酒を愛した。
ある程度、仕事で飲んでいた部分もあるはずだが、
我が身に照らしても、やはり好きなほうだったのだろう。
休日には夕方から飲みつつ、僕らの夕食を作った。
・手こね寿司
・上海風焼きそば
・ちゃんこ鍋
といった得意料理があった。
昭和ひとケタ生まれという世代を考えると、
「男子厨房に入り浸り!」
というのは少し変わった人だったのかもしれない。
だが、そんな姿を見ていたからこそ、僕も食に関心を持った。
いま振り返ると、そんな影響もあった気がする。
話は寿司店のカウンターに戻る。
当時21歳だった僕は大学3年生であった。
本来であれば就職活動を始めるぐらいの時期だったが、
僕はそれを放棄し、大学を休学するつもりでいた。
「韓国に留学をする!」
というのが表向きの理由ではあったが、
正直なところ、普通に就職するのがどうも嫌だった。
むしろ、幼い頃からの夢であった物書きを目指し、
「世界一周の旅に出るのだ!」
「それをネタにして紀行作家になるのだ!」
「オレの深夜特急を書くのだ!」
というバカなことも考えていた。
とりあえずフリーターをしながら資金を貯め、
留学に出るか、旅に出るかをじっくりと考える。
休学を決めた時点では、そんな腹づもりだったと思う。
親の立場としてはさぞ不安な息子だっただろう。
寿司店のカウンターで父とふたりになったのは、
そんな決意を報告する、という意味合いがあった。
昔から子どもの決めたことを反対する父ではなかったが、
人生の岐路であり、少し緊張したことは覚えている。
すると、父はこんなことを語った。
「年を取ったらオーディオに凝るつもりだった」
「でも、実際に年を取ってみると、だいぶ違うんだな」
「若い頃に比べると、ずいぶん耳が悪くなった」
「オーディオに凝ろうと思っても、もうダメなんだ」
「ものにはやるべき時期というものがある」
「やろうと思ったことは、そのときにやるべきだ」
「君にやりたいなら、それをいま全力でやりなさい」
細かい部分での言い回しに違いはあるだろうが、
だいたいにおいて、こんな話をしてくれた。
やりたいことは、そのときにすべき。
背中を押してもらった僕は、すぐ大学へ休学届を出し、
いわゆる社会のレールから横道へとそれた。
その後、僕は1年半かけてフリーター生活を謳歌し、
それなりの資金を貯めて、韓国留学へと渡る。
うっかり放浪の旅に出なかったのは賢明な選択だった。
1999年9月。僕は留学生として韓国に渡り、
そのおかげでいまがあるのは言うまでもない。
さて、ここまで話を進めてきて勘のよい人なら、
すべての文章が過去形であるのに気付いていると思う。
思い出話以外の部分も過去形として書いているのは、
すでに父が、故人であるということだ。
昭和ひとケタと書いたように僕は遅い子どもだったが、
それでも亡くなった時点で、66歳はまだ若い。
僕が留学に出た直後に入院し、翌年6月に亡くなった。
僕が留学を終えて、日本に戻ったのがその12月。
年が明けてすぐ新大久保でアルバイトを始め、
また、大学へ戻るまでの間に文章を書き始めた。
このメルマガの創刊も2001年3月だ。
すなわち、父は僕が文章を書き始めたのを知らず、
コリアン・フード・コラムニストを名乗ったのも知らない。
寿司を食べながら、留学への思いは語ったが、
その留学で得た成果までは見届けてもらえなかった。
残念ではあるが、それも運命だろう。
もうひとつ、これも運命といえるのだろうか。
亡くなる少し前、父は仲間内で作る小冊子に、
帽子と自分をテーマとした、短い文章を書いていた。
親しい仲間に向けて近況報告を兼ねたもの。
新しく買った帽子を、うっかり洗濯したところ、
色落ちしてしまい、絶対買わないような配色になった。
捨てようかとも思ったが、どのみち定年退職の身。
誰に気を使うでもない立場なので、
「自分が帽子の色に合う人になろう」
そう決意した、というような話だった。
確かにその時期、色あせた帽子をかぶっていた気もする。
短い文章であり、ごく身近な話題でありながら、
父の人柄がよく表れているように思えた。
自分もこんな文章を書ける人でありたい。
僕がその小冊子を読んで、そう思ったのも、
やはり父が亡くなった後で、父はそれを知らない。
ああ、そうそう。
僕が居酒屋でプレーンのチューハイを飲んだり、
寿司を食べに行って、アナゴを炙ってもらったり。
ときどき自分で上海風焼きそばを作るのも……。
やはり父は、それを知らない。
<新刊情報>
韓国料理には、ご用心!
http://www.amazon.co.jp/dp/4883205800/
http://books.rakuten.co.jp/rb/12257440/
<リンク>
ブログ「韓食日記」
http://koriume.blog43.fc2.com/
Twitter
http://twitter.com/kansyoku_nikki
FACE BOOK
http://www.facebook.com/kansyokunikki
<八田氏の独り言>
結局、タバコには手を出しませんでした。
のび太くんのお父さんと同じチェリーです。
コリアうめーや!!第296号
2013年7月1日
発行人 八田 靖史
hachimax@hotmail.com
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